『バード・ボックス』「あれ」の正体と”見ても大丈夫な人”謎解き|ネタバレあらすじ|考察評価レビュー

スリラー・SF・アクション

こんにちは!運営人の映画好き画家・タクです。今回のムービーダイアリーズレビュー作品は『バードボックス』。2018年公開のアメリカ映画です。



「目隠し外したら即、死。」という限定シチュエーションスリラー映画がNetflixプレゼンツの『バード・ボックス』。

以前似たような映画で、「音を立てたらクリーチャーに襲われる」という『クワイエット・プレイス』がありました。面白い映画でした。

人は聴覚、視覚を奪われることに恐怖を感じるものですが、この映画は「あるものを見ると死が訪れる…」という、見てしまったらアウト、という恐さをベースに敷き、『スピード』のサンドラ・ブロック主演で描いています。

この映画には、シチュエーションホラーならでは?の、「なんでそうなってるの?」というわかりにくい部分もありますので、そんなクエスチョンへのぼくなりの答えも書いてみます。

それでは、「見る恐怖」=『バード・ボックス』をレビューしてみましょう。




『バードボックス』予告編

『バードボックス』解説

『バード・ボックス』の物語の舞台は、謎の集団自死が蔓延した世界です。

ある日突然、町中で人々が自殺しはじめます。理由は一切明かされません。「何か」を見たことだけがほのめかされます。

主人公の女性マロリー(サンドラ・ブロック)と、彼女を取り囲む7人は、一軒の家に閉じこもることで「何か」を遮断し、なんとか生き延びます。

「何か」を見たら自死が訪れる…そんな狂った外部から隔絶された世界での恐怖と、新天地への脱出行が描かれます。

『バード・ボックス』あらすじ

以下にあらすじをまとめます。ネタバレを含みますので閲覧は各自のご判断でお願いします。

主人公マロリーが2人の子供に「今から川を下る。決して目隠しを取ってはならない」と告げ、3人は目隠しをしたまま、ボートに乗り、漕ぎ出す。

なぜ、目隠しをしたままなのか?

物語は過去に遡り、謎の集団死が世界に蔓延した様子を描き出す。

どうやら、「光景を見る」行為が自死へと繋がるようだ。

みごもっていたマロリーはなぜか発病せず、一軒の家の男ダグラス(ジョン・マルコビッチ)に助けられ、家の中に招き入れられる。

家は、窓が全て新聞紙やカーテンで覆われている。外の「光景」を目にしないためだ。

外部と隔絶された一軒家の中で、家主のダグラス、トム(トレヴァンテ・ローズ)はじめ、7人の見知らぬ男女が閉ざされた生活を送ることになる。

しかし、食糧は尽き、スーパーへとクルマで向かうことに。

当然目隠しをしたままだ。

なんとかスーパーまで辿り着き、食料を入手する彼ら。

そんなところへ一人の男が助けを求めてくる。

「精神病院の患者が脱走した様子を見た。彼らは自死する奇病にかからない」という。

男の言うことは本当なのか??

疑心暗鬼のまま、男を家に招き入れてしまう。

そんなさなか、身重だったマロリーと、もう一人の妊婦が産気づく。

出産の苦しみの声が家に響く。

赤子出産と同時に、招き入れた男の目の色が狂気に変わり、狂ったように窓の遮蔽を剥がし始める。

外の「光景」を見たが最後だ。

目隠しをしたままで、男と戦うダグラスとトム。

しかし、遮蔽を剥がされた室内で、マロリーと2人の赤子、そしてトムを除き、戦いの果てにダグラスは命を落とす。

 

それから5年。

 

マロリーとトム、二人の子供たちは郊外の一軒家に逃げ延び、目隠しした中で生き延びる術を鍛錬していた。

はたして世界には、彼らの他に生き残った人間はいるのだろうか?

無線機を使い外界とコンタクトを取り続けるマロリーとトム。

そんなある日、マロリーの無線機による呼びかけに、

『川をくだれ。聞き耳を立てろ。小鳥のさえずりの先に、安全な場所がある』

と、レシーバーの雑音の向こうにかすかな声が答える。その声に一抹の希望を見るマロリーとトム。

そこへ数人の男たちがマロリーらを探し当て、殺そうと迫る。

なんと、彼らは目隠しをしていない。

そう、精神病院から抜け出した患者たちだ。

彼らは「光景」を見てもなんら影響はないのだ。

目隠しをしたまま、男たちと戦うトム。

しかしトムは、マロリーと二人の子を逃し、自死。命を落とす。

ここで物語は、映画冒頭の川べりシーンにリンクし、マロリーと二人の子供がボートを漕ぎ出す。

流れの先に待つのは激流。

果たして彼ら3人は、目隠しをしたまま、安全な場所までたどり着くことができるのか?

そして、レシーバーの向こうから聞こえた「安全な場所」とは、本当に実在するのか??

といったストーリーです。




『バード・ボックス』ネタバレラストは?閲覧注意!

以下に『バード・ボックス』のネタバレ結末を書いておきます。『バード・ボックス』を観たい方はあくまで自己判断でお読みください。

激流でボートから放り出される3人は、奇跡的に助かり、岸辺で抱き合う。

目の前に立ちはだかるのは鬱蒼とした森だ。

目指す場所はどうやら森の向こう側らしい。

目隠しをしたまま森の中を進む途中、マロリーは崖から転げ落ち、3人は散り散りになってしまう。

目隠しの闇の中、子供たちを案じ、探すマロリー。

そのマロリーの頭の中に、どこからともなくいくつもの謎めいた声が響き始める。

マロリーはその声を必死に振り払い、子供たちを探し当て、一軒の建物にたどり着く。

ドアが開き、中にいざなわれるマロリーと子どもたち。

そこにいたのは笑顔でくらす大勢の人々。

助けの無線の声の主は、そこにいた。見ると、盲目だ。

青い鳥に誘われた場所は、盲学校だった。

目が見えない故に彼らは楽園を作りあげることができたのだ。




『バード・ボックス』考察1〜自死に追いやる謎の「あれ」の正体とは?

『バード・ボックス』では、『自死を招く謎の「あれ」』は、最後まではっきりと明かされません。観客にクエスチョンを残して終わります。

形のあるヒントとして示されるのは、家の中に招き入れられた男が、おかしな光を目に宿しながら描いている「バケモノのようなものを描いた十数枚のスケッチ」のみです。

そのスケッチを踏まえて、ここからはぼくの考察です。

結局、その男は精神病院から脱走してきたひとりだったわけで、心を病んでいるゆえに、「自分自身の心の中の、作り上げた光景しか見えない」ために「何か」の影響を受けることがなかったのでしょう。

では、彼が描いていた「十数枚のバケモノを描いたスケッチ」は、何を意味していたのしょうか?

実は人は、心を病んでいなくとも、誰もが心の中に「狂気」という「バケモノ」を隠し持っていますよね。

別の言い方をするなら「悪魔的な心」です。

普通人々は、生きにくいこの世界で生き抜くために「常識」という後付けの力で、「バケモノ」にフタをし心の闇に閉じ込めています。「何か」は心の闇に閉じ込めた「狂気」なのではないでしょうか?

西欧には一般的に「悪魔」という概念がありますよね。

日本なら魑魅魍魎やキツネツキ的なもの…といっても良いでしょう。

それらは人の外の世界にあるものではなく、実は人の心の奥底に潜んでいるものです。

それが『バード・ボックス』の「明かされないバケモノ」の正体ではないか?…とぼくは思いました。

世界になんらかの歪みが生まれることで、「普段なんともない光景を見ること」が、普通の人々=健常者の心のフタを取っ払ってしまい、即座に狂気、すなわち悪魔、魑魅魍魎が溢れ出てしまう….

『バードボックス』の「あれ」とは、そういう、人の心に本来隠されている狂気なのではないか、、、とぼくは理解しました。(あくまで推測です。)

だって、普段暮らしていても、「日常において、実はまともと狂気は、紙一重で、あやういものだ」…と思いませんか?ぼくは思います。




『バード・ボックス』考察2〜あれを”見ても大丈夫な人”の謎解き

『バード・ボックス』は、謎が多いドラマですが、「精神病院から抜け出した患者たちが、モンスター(らしき何か)を見ても大丈夫で普通に生きていられる」ことが、一つの物語を解くキーワードになっていると思います。

では「あれを見ても大丈夫な人たち」はどんな人なのかを考えてみました。

先にも書きましたが、精神病院から抜け出してきた人は、外で平気で行動し、「あれ」のなんの影響も受けていません。

精神病院から抜け出してきた心を病んでいる人々は、そもそも『「あれ」すなわち『モンスター=心の中の悪魔』を常に抱え「見て」います。言い方変えれば、いつもスタンダードに悪魔と共存している…なので、大丈夫なのでしょう。

だからちょっとしたはずみで歪んでしまった世界=光景を見たときに、おかしくもならずにいられる…逆に彼らは美しい世界」とまで思っています。

彼らは、「「あれ」によって視点が変わり、それまでのワールドと逆転して「健常者」になっている。だから、「あれ」を見ても大丈夫…と、ぼくは理解しました。

クライマックスでトムに襲いかかる男たちは、「あれ」が見えていても狂わない=いたって普通です。間違いなく心を病んだ人たちなのでしょう。

しかし、「光景」がなぜ、人間の精神、常識をひっくり返すのか?については語られません。

どうもその点が、ぼくは引っかかっています。

ウィルスや何かそんな外的な要因ではない、、、と、ぼくは思っています。

ここで鍵となるのが、バードボックス内に閉じ込められた「青い鳥」です。




『バードボックス』考察3〜謎を解く鍵はメーテルリンクの「青い鳥」?

青い鳥といえば、メーテルリンクの童話「青い鳥」が思い出されます。

ご存知、チルチルとミチルが青い鳥を探す物語です。

どんなお話だったか覚えていますか?

要約すると、主人公チルチルとミチルが幸せを呼ぶ「青い鳥」を探してくれと頼まれて旅にでるお話です。

いろんな国で青い鳥を探し求める彼ら。しかし、青い鳥を捕まえることができずに家に戻ってきます。

結末は、家の白い鳥が青い鳥に変わっている、という物語です。

童話の持つメッセージを簡単にいうなら以下になります。

「幸せとはどこか他のところにあるのではなく、身近にある。そしてあまりに近ずぎて幸せとは見えないものだ…。」

「求めていたものは、スイッチを変えれば、手元に光って存在している」

…という、実に示唆に富んだ童話です。

鳥篭ならぬ鳥箱に入れられた青い鳥が最後に箱を開けられ羽ばたく姿は、どうも童話の示唆に掛かっているような気がしてなりません。

「いつも見ている光景は、あまりに普通で見ているように思い込んでいるだけで、実は本質の美しさを見ていないんだよ。

目で見て目を閉じたあと、心に映る美しい光景があるでしょう?それは何にも変え難い宝物なんだよ」

「心に残る光景を見ることができないという状況は死んでいるも同然なのだよ…」

と、気づかせるための突然の自死蔓延シチュエーションだった…。とぼくは思いたいです。(これもぼくの推測ですが。)




『バード・ボックス』考察4〜ラストの盲目の男

『バード・ボックス』の主人公たちが助けられたラストに、映画の全ての答えがある…ぼくはそう思います。どういうことか?

マロリーを助けた男は盲目です。

盲目の男が、何でもって「世界を見る」のか?

そう、それは「心の目」です。

先にも「世界は健常と狂気は紙一重」と書きました。

健常と狂気という言葉を、ぼくらの常識と非常識という言葉に置き換えるとわかりやすいかもしれません。

常識と非常識は紙一重、ひとつのことがらのオモテとウラです。

たとえば、今、行われているウクライナ戦争を例に取るとわかりやすいかもしれません。

西側のぼくらはロシアを非常識であり狂気の対象としてとらえます。でも、ロシア側から見れば、ぼくらが狂気なのです。

第二次世界大戦の時もそうでしたよね。日本はアメリカを鬼畜と呼んでいましたから。戦争終わってのちの今はあっさり逆転。

要は、ぼくらは、悲しいかなさまざまな情報や常識に囚われて生きています。

立場が違えば、当たり前と思っていたことが狂気となり、狂っているよ、と決めつけていたことが実は真っ当だったりするのだと思います。




『バード・ボックス』映画の伝えたかったこと

長々と書いてきましたが、「心の目で世界をみなさい」それがこの映画のメッセージだとぼくは受け取りました。

ここで考えてみましょう。

「心の目」はどういった時に「曇る」でしょうか?

それは、「こうしなければならない!」とか、「なんとしても護らなければならない」といった、皮肉にも「自分を奮い立たせる時だったりします。

「流れに逆らわなければならないとき」「自分を信じ込ませるとき」といっても良いかもしれません。 

ラストで、子供たちを「なんとしても護らなければ!」と必死になるマロリーに謎の「声」が降りかかります。

それは、「心の曇り」へといざなうマロリー自身の声であり、

マロリーを追い詰めるように見える森は、「追い詰められているマロリーの心の絵」だ、と、ぼくは考えています。

「心の目」「立ち位置が変わるとモノゴトの見え方は逆になる」というキーワードをこの映画に差し込むと、全ての謎が解けるような気がします。

 

『バード・ボックス』は、ただのホラー映画ではありません。

『バード・ボックス』が伝えたかったメッセージをぼくはこう受け取りました。

「心の目で世界を見なさい。そうすれば全てうまくいくんだよ。目で見えている世界は本当に大丈夫なの?あなたに見えている世界を、そしてあなたの目を疑いなさい」

そのメッセージを観客に届けるために、深く考えてもらうために、『バードボックス』は「ホラーサスペンス」というカタチをとったのではないでしょうか?

「世界がいっせいに狂ってしまう」という謎のシチュエーションを設定しつつ、実は深く啓蒙的な映画…そう、ぼくはそう思いました。




「正体」解明のヒント=オーストラリアのウサギ大量自死事件

最後に一つ、「正体」を探るための一つのヒントを書いておきたいと思います。(あくまでヒントで明確な答えではありません)

以前、オーストラリアのウサギたちが、ある時突然大量に自死する、というドキュメンタリーを見たことがあります。

元々オーストラリア大陸にはウサギはいませんでした。大陸に移住したイギリス人が狐狩りのために持ち込んだのがウサギでした。

ところがウサギたちは新天地で大繁殖します。理由は天敵がいないから。

しかし、繁殖に繁殖を重ねたうさぎたちは、ある時、突然、大量に自死し始めるのです。そして、多分、生きていくにちょうどいい数に戻る。

ウサギ大量自死の明らかな理由は不明だったと思います、それが多分、自然の「摂理」=理(ことわり)と言うものなのでしょう。

ぼくは『バードボックス』を観ながら、実は「オーストラリアのウサギたちの大量自死」のドキュメンタリーエピソードを思い出していました。

自死は、仮にウサギたちの気持ちになれば、「訳わからないけど死ななければならない!」と思っての行為だと思うのです。

人間に置き換えるならば、こうなります。

「自然の何かに摂理の臨界点に達した人間たちの存在が、なんらかの理でオーストラリアのウサギたちのように自死し始める。」

すなわち「それ」とは「大いなるものの摂理」であり、人間たちの成してきた何かが理の臨界点に達した。これがぼくの中では一番スッキリする「それ」の起因への考察です。(ハズれているかもしれませんが、「一つの考察」ということで…)

『バード・ボックス』ぼくの感想・評価は?

『バード・ボックス』へのぼくの考察を長々と書きました。

観終わってから、いろいろ考えさせられました。深い考察を求められたという点で、観る価値が大いにあった映画でした。

でも、スッキリ明快映画が好きな方には「みても大丈夫」とは言えないかな、、、。

また、目隠しシーンが続くのは、個人的に正直、結構きつかったかな。

なぜ産婦人科の女医が助かってラストに登場するのか、をはじめとして、説明不足だな…と感じるところも、いくつかありました。

ということで、ぼくの評価は75点としました。




ちなみに2作目『バードボックス・バルセロナ』もレビューしていますので、よかったらご覧ください。




『バード・ボックス』キャストの魅力

マロリー役のサンドラ・ブロックは久しぶりにスクリーンで観ましたが、母親になる前と後の違いが素晴らしい。良い味を出していました。

ジョン・マルコビッチも同じく久々の再会に嬉しくなりました。そういえば、マルコビッチは、市の昔『二十日鼠と人間』で「知恵遅れの心のきれいな男」の役を演じていました。とっても印象深かったです。(『二十日鼠と人間』1992年のアメリカ映画・監督:ゲイリー・シニーズ)

今回の『バード・ボックス』では真逆の役でしたが、その出演は、30年の時を経ての必然だったように、ぼくは思っています。

『二十日鼠と人間』すごくよかった印象あります。もう一回見てみたいな。




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