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- 『コットンテール』考察評価:星四つ🌟🌟🌟🌟
主演はリリー・フランキー。妻を亡くした男が散骨のために英国湖水地方へと旅するロードムービースタイルのヒューマンドラマです。
『コットンテール』の意味は?
『コットンテール』スタッフ・キャスト
監督・脚本/パトリック・ディキンソン
キャスト/リリー・フランキー 錦戸亮 木村多江 高梨臨 恒松祐里 工藤孝生 イーファ・ハインズ キアラン・ハインズ
『コットンテール』あらすじ
あらすじは公式サイトより転載します
60代の作家、大島兼三郎の最愛の妻、明子が、闘病生活の末に息を引き取った。
埋めようのない喪失感に打ちひしがれた兼三郎は、生前の明子が寺の住職に託した一通の手紙を受け取る。
そこには明子が愛したイギリスのウィンダミア湖に、遺灰をまいてほしいという最後の願いが記されていた。
兼三郎は遺言を叶えるために、長らく疎遠だった息子の慧とその妻さつき、4歳の孫エミとともにイギリスへ旅立つ。
しかし互いにわだかまりを抱えた兼三郎と慧は事あるごとに衝突し、単身ロンドンから湖水地方に向かった兼三郎は、その途中で道標を失ってしまい……。
『コットンテール』感想
主人公オヤジのキャラが立ってる
物語はリリーフランキー演じる大島兼三郎が妻を亡くした「喪失の日」からはじまります。
冒頭その日の見せ方にぼくはうなりました。普通なら「チーン…ポクポク」といきたくなるところです。
でも、一切そんな見せ方しません。日常を切り取るカメラにリリーフランキーがあの持ち味で見事に応えて、静かない演出でスタートします。
リリーフランキーの演技って、独特の味ですよね。
誰もが、フランキー節みたいなもの感じると思います。
演技してるんだか、素なんだかわからないんですが(すみません)、それがイイ。
『コットンテール』でも、作家になりたくて、でもなれなかった何十年を匂わせつつキャラを立たせています。役柄の名前からして、リリー節炸裂を匂わすような「オオシマケンザブロウ」ですよ。リリーフランキーのためにあるようなキャラではありませんか。
で、このケンザブローさんはダメオヤジを絵に描いたようなキャラなんですが、こういうダメダメクソオヤジ、見回すとちかいところにいるよな!と、思うわけですよ。
ぼくはメチャクチャ納得主役キャラでした。あ、気がついたら、そっか、鏡に映ったオレだった!みたいな、ね。
(そう感じない方は、とても幸せな境遇に育ったという証左ですよ、ご安心ください)
ちなみにネタバレになりますが、リリー扮する大島ケンザブローのダメっぷりがどれくらいダメかというと、劇中、可愛いはずの孫まで、ロンドン市内の公園でほっぽり出しちゃいます。で、錦戸亮演じる息子と、その嫁(高梨臨)から「どういうつもりだよ!」と罵られます。
いえね、そのシーン、実体験としてあるんですよ、実は…我が家の恥を晒すようで恥ずかしいのですが、ぼくの父がやらかしたことがあるんです。そして、父はどっか似てるんだな、リリー演じる大島ケンザブローと…おっと、マズイ、プライベートが入ってきてしまった。
話を戻します。
この『コットンテール』の父と息子、ぼくの親との関係性と非常に似通ったところがあったので、ホントに刺さってきました。グサグサと痛い映画でしたよ。。。
ドラマで交差する現在と過去
ドラマでは現在と過去が交差しながら進みます。ちょっと戸惑うところもあるかもしれませんが、このカットバックは親と子の確執をうまい具合に表現していたと思います。
結果、ストーリーはそのカットバックでイギリスシーンと日本シーンを行ったり来たりします。
木村多江演じるケンザブローの妻は若年性アルツハイマーで、その演技、すごいです。痛いほどです。
痛いシーンの後に、優しいイギリスの空気がカットバックで映し出されます。
その空気の中には、ケンザブローが迷う姿が常に、ある。
その姿がどうしようもなく情けないんです。が、なぜか優しく柔らかくココロに沁みてくるんです。
そんなカットバック、ぼくは好きでした。
すれ違う父と息子
リリー・フランキーと錦戸亮は、親子を演じているのですが、そのすれ違いと子の父への反発心が、これまたぼくは痛いほどわかるのです。
錦戸演じる長男の一挙手一投足がわかりすぎるくらいわかる。
あゝ、いたたまれない、恥ずかしい…と思ってしまうほどです。
ってことはだ、父と子の対立構図が頭の中で分かっても、心でわからない人には、もしかすると『コットンテール』は、ピンとこない映画なのかも!…とも思いました。
さっきも書きましたが、『コットンテール』がピンと来ない方は、親と子の関係が光のように恵まれ幸せな人生を送ってきた人…ですよ。誇っていいです。
迷い方が地理的にしっかりしてる
映画見てて、知ってる場所が出てきたりすると、ついアラ探し、もといロケ地をググっちゃうの、旅好きアルアルですよね。
それ、ヤラシイ映画の見方だなあ…と、わかっちゃいるんですが、ついやっちゃいますね。
で、今回の映画で気になったのは、主人公が汽車を乗り間違えて、途中下車し迷うシーケンスです。
ぼくの推測ですが、ケンザブローは、キングスクロス駅からヨーク・エジンバラ方面行きに間違って乗ってしまったんだと思います。
で、ヨークシャー州のどこかの駅で途中下車しか、自転車をくすねて西に向かう。
ハワース周辺の農家で世話になり、農家の親子の車でさらに西に進むと湖水地方につけます。
地理的にしっかり迷い方を逆算した脚本です。
説明しなくてもスジを通してるドラマって、迫ってくるよなあ、と、ぼくなんかは思うのです。
湖水地方の魅力はさほどでもないこと
タイトルからピーターラピッドを連想し、湖水地方の美しさを映画に期待していくと、『コットンテール』は肩透かしを食らうと思います。
きびしい言い方になりますが、新しい視点で切り取った湖水地方の風景シーンは、残念ながら、ほぼない、とぼくは感じました。
映画では、気をてらわない…キツい言葉を使うなら、平凡な風景しか映りません。
なんで平凡なのか?それは、監督自身が生まれついてのイギリス人だから、なのかもしれません。
意外にもアウトサイダーは、住んでいる人以上の美的視点を切り取るものです。
コットンテールと名付けられたウサギたちが息づくイギリスの新しい風景。
その魅力がなかったのが、ぼくは残念でした。
イギリス人親子がドラマをささえる
テキトーな汽車に乗り、まよい、途中下車してなお、人に甘える父親の姿は情けない度10です。
甘える父ケンザブローを、フラフラになってイギリス人の農家に住む親子がささえるのですが、この親子の父のセリフが、ヨイです。
ここでも「親子」が登場しますね。
どうやら『コットンテール』、ケンザブローと妻の話かと思いきや、なんのなんの、親と子の話だったということが、このシーケンスでわかってくるのです。そしてドラマはクライマックスへと向かいます。
ぼくはイギリス人の親子の「カタチ」が一番ココロに残ったです。
『コットンテール』ぼくの評価は?
ぼくの感想評価、星四つ🌟🌟🌟🌟です。
星が欠けた理由は、ふたつあります。
一つ目は、リリー・フランキー演じる「ケンザブローと脇役たちとの間合い」が、何かを伝えたい「間」だ…ということはわかるのですが、どうも終始、説明的な「間合い」に終わっていて、生かされていなかったのが残念と感じました。
監督のパトリック・ディキンソンは、日本人や日本文化に理解と造詣が深そうです。
ということは、日本人の対人の距離感や対話の「間」もわかっている方でしょう。
なので、その残念感は、ぼく個人の感覚とイギリス人監督の「コミュニケーション間合い」についての感覚のズレなんだと思います。
もう一つはラストシーンの湖水地方を見下ろすカットへの残念感です。
ドラマのさまざまな意味での終着点がウィンダミア湖だったのならば、「丘の上のビューポイント」というラストアングル設定は、眼下にはちらっとでも「湖が広がっている場所で撮影してほしかった」と思いました。
なぜあの印象的なラストカットで普通の湖水地方の山並みカットにしたのか?
別にロケ地はウィンダミア湖でもエスウェイト湖でも、どこでもよいし、ビューポイントは実際数多くあるわけで、、、。予算の関係で撮影しきれなかったのか?
ラストシーン直前の湖に散骨するシーンが秀逸でしたし、きちんと野うさぎをラストに出していましたので、なおさらに物語の円環が、プツッと途切れてしまったようで残念に感じました。
と、二つの正直残念を差し引いても、いい映画でした。
いい映画をありがとうございました。
『コットンテール』予告編
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