映画『火口のふたり』考察|解説からネタバレあらすじまで〜ふたりの性愛と西馬音内盆踊りに見る生と死〜

分類不能

どこにでもある日常と、どこにでもいそうな男女2人の五日間。『火口のふたり』で描かれるのは、その時間の中でのかつて恋人同士だった2人のセックスと食事、そして過去に体を重ねていた遠い記憶の波紋。

ありきたりをありきたりとして描く脚本と演出熱量がすごい。R+18指定となっている『火口のふたり』をあらすじから解説、考察感想までレビューする。



『火口のふたり』解説 

監督は脚本家でもある荒井晴彦。(『ヴァイブレータ』『共喰い』『海を感じる時』)

二人の男女が愛を交わす、五日間の性愛の物語だ。

映画は、再会をきっかけに情欲に突き動かされていく、かつて愛し合っていた二人の姿を描きだす。

出演は、『今日子と修一の場合』の柄本佑と『彼女の人生は間違いじゃない』の瀧内久美。

柄本佑の父親柄本明が電話の声だけで出演している。直木賞作家、白石一文の同名小説がベース。

『火口のふたり』予告編




『火口のふたり』あらすじ

主人公ケンジは、都会で暮らしている。

バツイチ、今は独り身だ。仕事もない。

ある日父親から、幼馴染でいとこのナオコの結婚を知らされる。

ケンジは結婚式に出席するため、故郷秋田に帰省する。

久々に再会する二人。

結婚前の準備に忙しいナオコは、仕事もなくぶらぶらしていたケンジを買い物に連れ出す。

ナオコの結婚相手は自衛官だという。赴任地は関東らしい。

仕方なくナオコの新居に荷物を運び入れるケンジ。

 

実は、かつて、ケンジはナオコと恋人同士だった。

 

「今だけ、あの頃に戻ってみない?」

 

そんな直子の言葉をきっかけに、8年ぶりに再会したふたりは、体の関係を持つ。

 

結婚式は5日後。

五日間の二人だけの濃密な漂流がはじまる。




あらすじ結末まで。ネタバレ閲覧注意。

ナオコの新居で結婚式前夜まで体を重ね合わせる二人。

2人のセックスの日々には、過去と未来、そして震災の影もが綾のように絡み合う。

 

結婚式の2日前、ケンジとナオコは、西馬音内に盆踊りを見に出かける。

生と死の境界を彷彿とさせるその踊りを見た2人の中で、何かが変わる。

その夜、ナオコは、今は亡きケンジの母から、ケンジの結婚が決まった時「あなたたち2人の結婚を望んでいた」と、明かされた、と告白する。

 

西馬音内のホテルで朝起きると、ナオコはいない。別れの手紙を書き置いて去ったあとだった。

 

ひとり、秋田に戻るケンジ。

そこに父親から、ナオコの結婚式が延期になったと電話が入る。

 

ナオコにその理由を問いただすケンジ。

聞くと、結婚相手の自衛官は極秘任務が発動、式に出られなくなったという。

ナオコはその極秘任務が「3日後に迫った富士山爆発の現地指揮」だと知ったことをケンジに話す。

 

「いつまでも家にいていいよ」

 

ふたたび2人の、不思議な時間がはじまる。

 

ナオコは、かつてケンジの部屋に貼ってあった富士山火口の写真を大事に保管していた。

テレビからは富士噴火の警戒を促す音声が流れてくる。

変わらずにからだを重ねる2人と、流れゆく時間。

エンドロール。


『火口のふたり』考察 

R+18指定なので、当然劇中は濃厚なセックスシーンがいくつも登場する。しかし、そんな性描写には狙ったいやらしさが、ない。

食事のシーンも同じくらいに登場するが、濡れ場が食事シーンと同列の「日常の営み」感で貫かれている。それがこの映画のすごさでもある。

秋田に暮らす2人の日常。そして果てしなく繰り返されるセックス。

人間誰しもが持っている、白日の元から隠された、しかし実は当たり前にある日常世界を、一つのカタ=スタンダードとして見せているのは、脚本の緻密さと骨の太さのなせる技だと思う。

いやらしさのない性描写

なぜだろう、ぼくは『火口のふたり』の性描写に作為的ないやらしさを感じなかった。

ドラマの骨を支えるセックスのリアルな描写は、冷徹にさえ感じる。セックスからエロティックを抜き取った感じ、といってもいい。先にも書いたが、エロへの作為が消されたことで、リアルなのだ。

 

絶妙なバランスで体を重ね、対話する2人の存在感は、観客の意識をさりげなく次のシーンへと向かわせる。それは観客の誰もが持っているであろう過去の経験を

ハダカは饒舌だ。

それは逆に人の服装とはいかに様々なことをカムフラージュしている証左でもある。

 

「ハダカが饒舌」と書いたが、それは悪い意味ではなくセリフ以上にセリフを語っている、とでも言えば良いだろうか。

内容のないセックスストーリーが巷には溢れているけれども、おおかたその内容のなさゆえ、絡みだけを楽しんで、ハイおしまい、となるのが常だ。

ところが『火口のふたり』の展開は、ラストまで目が離せなかった。

セリフが一つ一つ、生きているといったら良いだろうか。柄本と瀧内の発する言葉のひとことひとことが、まるで織物の糸のようだ。


なぜ「秋田」なのか?

ぼくは原作を読んでいないが、どうやら原作舞台は九州福岡らしい。それが映画では東北秋田に置き換えられている。

なぜ秋田に変えたのだろう?と、東北に暮らすぼくは少し疑問だった。

その疑問は映画を見ていくうちにほどけていった。

主人公2人の交わす会話の中に、東日本大震災が出てくる。

巨大な生と死のモニュメントとして東日本大震災が近いけど遠かった秋田を選んだことは、西馬音内盆踊りの存在と合わせて理にかなった舞台だったとぼくは感じている。


なぜ『火口』なのか?

タイトルの火口をどう捉えるか?

ぼくは生と死の境界なのではないかと思っている。

映画の中で描かれるのは、2人の食事シーンと性行為だ。

食事という行為もセックスという行為も、人間にとって生と死に強く繋がっている。

また、後半で西馬音内盆踊りのシーンが登場する。西馬音内盆踊りはドラマの中でも生と死の境界を表しているセリフが登場する。

なぜに秋田市内の夏祭りを取り上げずに西馬音内だったのか。

あくまでぼくの推測だが、それは監督の「生と死」は薄い膜で隔てられたものであり、食事とセックスもまた同じということを言いたかったのではないか?

実は、ぼく自身、西馬音内盆踊りを見たことがある。その時感じたのは、「なんとエロティックなんだろう」だった。また、同時に、「あの世とこの世がシャッフルされているような感覚だ」とも。

映画の中のセリフと同じことをぼくも西馬音内盆踊りに感じていたのだ。

死を間近に感じる儀式が西馬音内盆踊りだとすれば、「火口」もまた異界=死の世界との境界だとぼくは感じたのだ。



食事と性愛の共通点

食事という行為がセックスと似ている部分があると思う。

人類の大昔、「食べる」とは、「命あるものを殺し食い、我が身に取り込む」ワイルドな行為だった。

食事は、非常に生への欲求が強調された生々しい行為なのだ。

文明社会で食事マナーなるものができたのは、そんなワイルドさにシーツを被せたかったからではないだろうか…とも考えてしまう。



『火口のふたり』まとめと評価

主人公の本能のおもむくままの五日間で描かれるのは性すなわち生への欲求だけれど、ドラマはラストで富士山爆発をほのめかして終わらせる。

そんな終わらせ方にしたのは、誰にでも起こりうる、ひょんなことで起こる、生から死への転換、明日の不確実性だとぼくは思っている。

普段の暮らしで、シーツがかぶせられているような行為をパッと取り去って、観客自身の生と死に振り向かせるのが、監督の目指すところだったようにぼくは感じている。

ハリボテのような日々からベールを剥がすことに成功しているのは、主役の2人、柄本佑と瀧内公美の、隠すものを全てとりさった上での演技力のなせる技だと感じた。

柄本佑、瀧内公美は、揃ってキネマ旬報の新人賞、主演女優賞に輝いた実力派でもある。

万人向けの映画とはいえないと思う。

一部、バスの車内での性行為など饒舌すぎる部分もあり、ちょっとやりすぎじゃないか?と感じたシーンもあった。

ネタバレになるが、ラストはイメージコンテのような富士山噴火の絵で終わるのだが、その絵が必要だったのかどうか…ぼくは疑問だ。

もし観るならば、性愛、食事、そして西馬音内盆踊りから、観る人それぞれの「メッセージ探し」をおすすめします。



『火口のふたり』キャスト・スタッフ

CAST

柄本 佑 瀧内公美

STAFF

脚本・監督:荒井晴彦
音楽:下田逸郎
撮影:川上皓市
編集:洲崎千恵子
音響効果:齋藤昌利
写真:野村佐紀子
絵:蜷川みほ

原作:白石一文「火口のふたり」






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