『戦場のピアニスト』評価:星5つ⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️〜ホーゼンフェルト大尉はなぜシュピルマンを救ったのか?〜
『戦場のピアニスト』は(原題: The Pianist)第二次世界大戦におけるポーランド・ワルシャワを舞台とした、ホロコーストから免れたひとりの実在のユダヤ系ピアニスト・ウワディスワフ・シュピルマンの半生を描いた映画です。(フランス・ドイツ・ポーランド・イギリスの合作映画。2002年公開作品。)
監督は、自身もワルシャワゲットーの体験を持つ、ロマン・ポランスキー。主演はエイドリアン・ブロディ。彼はこの作品でアカデミー主演男優賞を受賞しています。
ピアニスト・シュピルマンの著作をもとに映像化した映画作品ですが、事実は小説よりも奇なり。ラシュピルマンの命救ったのはドイツ国防軍将校でした。
この記事では、映画公開後にわかった将校ホーゼンフェルト大尉の人となりも徹底レビューしていきます。
30秒で知る『戦場のピアニスト』簡単あらすじ
1939年、ポーランドのワルシャワ。ユダヤ人たちはナチスによってゲットーへ移住させられる。
主人公シュピルマンは、強制収容所送りを奇しくも免れ、隠れ家を転々、逃亡生活を送る。
ワルシャワ蜂起は失敗。街は灰燼に帰す。廃墟に隠れ命を繋ぐシュピルマン。ある日シュピルマンは、一軒の壊れかけた家でドイツ人将校ヴィルム・ホーゼンフェルトに見つかってしまう。
ホーゼンフェルトはシュピルマンの弾くピアノに感銘を受け、彼の命を救う。
『戦場のピアニスト』ネタバレあらすじ~ラストまで
以下の詳しいあらすじはネタバレを含みますので、映画を見たい方はスルーしてください。
wikipediaより転載します(一部省略改稿)
1930年代後半、ポーランドのワルシャワ。ユダヤ人、ウワディスワフ・シュピルマンはピアニストとして活躍していた。しかし1939年9月、ナチスドイツはポーランド侵攻を開始、ポーランドはナチスドイツの占領下に置かれる。
ワルシャワはナチスによる弾圧とユダヤ人隔離政策によって、シュピルマンはじめユダヤ人の生活は悪化。1940年後半には、ユダヤ人たちはワルシャワ・ゲットーに押し込められ、飢餓、迫害、そして死の恐怖に脅かされることになる。
ある日、シュピルマン一家は多くのユダヤ人と共に広場に集められ、財産を取り上げられ絶滅収容所行きの貨物列車に押し込められるが、シュピルマンだけは知り合いのユダヤ人ゲットー警察のヘラーの機転で列から外され、その場から逃れる。
ひとり残されたシュピルマンは、ゲットーに労働力として残された男たちに混じり、ゲットー内で強制労働を課せられる。ここでシュピルマンは、ドイツがユダヤ人抹殺を計画しているらしいこと、そして生き残ったユダヤ人たちが蜂起の準備をしていることを知る。シュピルマンは蜂起への協力を志願し、ゲットーへ隠れて武器を持ち込む役を担う。
ある日、食料調達のため街(ゲットー外)に出かけたシュピルマンは市場で知人女性ヤニナを見かけ、彼女を頼ってゲットーの外に脱出することを決意する。
脱出は成功。シュピルマンは、ヤニナと夫アンジェイが加わるレジスタンス組織に匿われ、ゲットーのすぐそばの建物の一室に隠れ住む。ほどなくユダヤ人たちのワルシャワ・ゲットー蜂起が起こり、シュピルマンはドイツ軍とユダヤ人の交戦を目の当たりにするが、ゲットー蜂起は鎮圧されてしまう。
その後の1年で、ワルシャワの状況は一層悪化する。シュピルマンの世話をしてくれていたレジスタンス組織のメンバーも次々捕えられ、シュピルマンは隠れ家からの逃亡を余儀なくされるが、旧友ドロタがシュピルマンに援助の手を差し伸べる。新しい隠れ家は、なんと監視の盲点を突くため、ドイツ当局が利用する病院や警察署の向かいにあるアパート最上階だった。
しかしドロタとの連絡係からの食料差し入れが滞り、シュピルマンは栄養失調で死にかける。ドロタと夫は、ドロタの実家がある郊外に避難しており状況をつかめなかったのだ。
1944年8月、ポーランド人の抵抗勢力は武装蜂起を起こす。ワルシャワ蜂起だ。しかし蜂起は失敗。シュピルマンは隠れ家の窓越しに惨状を見る。蜂起の報復に、ドイツ軍は報復としてワルシャワを空爆。完膚なきまでにワルシャワを破壊する。
廃墟と化したワルシャワをさまようシュピルマンは、ある日、崩れかけた一軒家でドイツl国防軍将校ヴィルム・ホーゼンフェルト大尉に見つかってしまう。ホーゼンフェルト大尉はシュピルマンがピアニストであることを知るや、1階の居間に残されていたピアノにいざない、演奏してくれと頼み込む。
シュピルマンが数年ぶりに弾くショパンの「ノクターン・ハ単調」。ホーゼンフェルトはその見事なピアノの腕前に感動し、屋根裏に潜むシュピルマンを見逃す。そしてその一軒家に軍司令部を設けつつ、周囲の目を盗んでは屋根裏部屋に潜むシュピルマンに食料を差し入れる。
やがてワルシャワにソ連軍が迫り、ホーゼンフェルト大尉は、シュピルマンにコートと食料、そして「生きろ」との言葉を渡して、指揮司令部から撤退する。
しばらくして、赤軍がポーランドに進軍、シュピルマンは保護され逃亡生活は終わりを告げる。
終戦後、ポーランド国内のユダヤ人収容所で、ひとりのバイオリニストが開放される。そのバイオリニストに、捕虜となったホーゼンフェルトが声をかける。「ピアニストのシュピルマンを知っているか?私は彼を助けたものだ。彼に連絡をとってほしい」
しかし、戦後の混乱の中、ホーゼンフェルトの伝言がシュピルマンに伝わるには時間がかかりすぎた。シュピルマンはバイオリニストとその収容所を訪れるが、ホーゼンフェルトの足跡は途絶えていた。
クライマックスはシュピルマンが演奏するショパンのポロネーズで締めくくられる。
字幕ではホーゼンフェルトが1952年にソ連の強制収容所で死去、そしてシュピルマンが2000年に88歳で死去したことが示され、幕となる。
『戦場のピアニスト』感想
ひとこと感想
最初にずばりひとことで感想言います。
「この映画を見ずに死ぬなかれ」。
ちょっとオーバーかな。
いや、オーバーなんかじゃない。
それくらい『戦場のピアニスト』には普遍的な破壊力があります。
感想:公開時、『戦場のピアニスト』を掃いて捨てたぼく
ですが、この映画ほど、見た年齢で評価が変わった映画はないです。
正直に言いましょう。公開時に劇場で見たとき、ぼくは40歳くらい(今は62歳)。当時のぼくが思った感想は、「見てらんないよ。ただただ逃げ回ってるだけじゃないの、、、」といった、ピアニスト・シュピルマンへのほぼ批判めいた感想でした。
当時のぼくは『戦場のピアニスト』をほぼ掃いて捨てていたのです。
そう感じた理由は、今はわかっています。
感想:映画は、観る側がどんな環境にいるかで感じ方がかわる
プライベートな話になりますので、興味ない方はすっ飛ばしてください。
当時僕は、とある仕事グループから抜け出て、そのグループと戦っているただ中にありました。周囲はほとんど敵ばかり(と思っていた。今思うとそうでもなかったけど)。そんな状況で見た映画が『戦場のピアニスト』でした。
僕は、基本、戦争映画が好きでよく観ます。
『戦場のピアニスト』は、舞台がワルシャワゲットー、そしてワルシャワ蜂起との映画なので、ぼくは「主人公は戦いぬく」という勝手な期待を持って映画館に行ったんだと思います。
とにかく日々眉毛が吊り上がっていた当時の僕にとって、「逃げ回る弱い表現者」を見るのがたまらなくイヤだったのでしょう。
感想:表現を仕事にする男は、シュピルマンが許せなかった
表現者って「自分が1番と思いこまないとやってられない」仕事でもあります。これは表現者でなければ、なかなか理解できない感覚だと思います。
当時ぼくは40歳。「自分が1番」とソリッドに思っていました。そんなぼくでしたから、「逃げる表現者シュピルマンの姿が許せなかったんだ」と思います。
ぼくは、劇中のワルシャワ蜂起で倒れてゆく市民の姿、戦っていく人々へは強いシンパシーを感じ、感情移入できました。
しかし、、、、逆に、どこまでも人間らしい心でホロコースト迫る廃墟のワルシャワを生き抜いたピアニストには、悲しいながら、残念ながら、恥ずかしながら、シンパシーを感じることができなかったんですね、、、当時の僕は、、、です。
なので、公開当時、『戦場のピアニスト』を見終わったぼくは、「大したことない映画だったな…」とあっさりと記憶の彼方に放り投げたのでした。
感想:公開から20年余~ガラリ変わったぼくの感想
この記事を書いている現在は2025年です。ちょうど第二次世界大戦が終わって80年という節目にあたります。ぼくはワルシャワ蜂起を調べるきっかけがあり、ふと、『戦場のピアニスト』を再度見てみよう、と思いました。
「つまらなかったよなぁ、不甲斐ない映画だっとよな…」と思いつつです。
ところが2度目の今回、『戦場のピアニスト』は、全シーンがワンカットワンカット、重厚な言葉を持って、僕に丁寧に語りかけてきました。
そして、隅々まで考え抜かれている凄さに圧倒されていたのです。
最後は、感動が押し寄せて、茫然なっていました。
感想:この映画を見ずして死ぬなかれ
昔見たときにふがいないと思ったシーンもわかりました。それは、主人公シュピルマンが「ぼくは逃げる」と、決心を口にするシーンです。
映画は、そのセリフを境に前と後に分かれる、いわゆる「分水陵」のような重要セリフです。
昔はそのカットから延々と、ぼくは上から目線で「不甲斐ない表現者シュピルマン」と見下していたんだと思います。あぁ恥ずかしい。
当時ぼくがまだ若造で、クリエイターとして戦闘モードだった当時、「逃げる」とか「隠れる」とか「負ける」とか、そんな事は映画の中にも許せないほど僕は小さかったし、弱い存在だったんだと思います。
こういう人間(昔のぼく)に今のぼくが会ったらどう思うか?
「傲慢で優しさのかけらもないやつ」です。
逆に今のぼくは「逃げることを選択した人間は、強い」とさえ思っています。
さてさて、そんなふうに、ぼくも少しは大人になったのか、今回四半世紀を経て見た『戦場のピアニスト』は、まるで「新作」を見ているような感覚でした。
『戦場のピアニスト』考察
考察:『戦場のピアニスト』ホーゼンフェルト大尉はなぜシュピルマンを助けたのか?
さて、ここからはいくつかの疑問に答えていきたいと思います。
映画を見た方は「なんであのドイツ軍将校はシュピルマンを助けたのか?」と疑問を抱くと思います。ぼく自身そう思いました。
ともすれば、「敵、ナチスにだって、善人はいたんだ、、、」くらいの認識で終わりかねません。
おまけにホーゼンフェルト大尉の人となりやバックボーンは映画では描かれません。
気になってしょうがなかったので、ぼく、調べてみました。
ホーゼンフェルト大尉の人となりが描かれなかったのは、それもそのはず、まだ映画が作られていた2000年ごろはホーゼンフェルト大尉の研究は進んでいなかったのです。
その後、ホーゼンフェルト大尉の研究が進み、ホーゼンフェルトが妻や家族と交わしていた膨大な手紙や書簡が発見されたことで、「ホーゼンフェルトがなぜシュピルマンを助けたのか?」がわかってきました。
ホーゼンフェルト大尉は、実はシュピルマン以外にもユダヤ人やポーランド人の命を救っています。将校としてその行為はゲシュタポに捕えられてもおかしくない「命の救出」でした。
なぜにホーゼンフェルトが、そこまでして多くの命を救ったのか?
答えは、数多く残された手紙文から浮かび上がる、彼の「人としての徳」としか言いようがありません。
彼は軍人であるとともに、教師でもありました。また妻と家族を大事にする父親でもあり、経験なクリスチャンでもありました。そんな彼のバックボーンは、人や人種を何かの枠にはめたり、蔑んだり見下したりという行為を、断固として却下すべきものとなっていきます。
妻アンネマリーとの書簡や日記から立ち上がる彼の肖像は、歴史の行末を冷静に見て、なおかつ己を律した凛とした姿です。
以下に、彼の人となりが浮かび上がってくる文章を、書籍『「戦場のピアニスト」を救ったドイツ国防軍将校ヴィルム・ホーゼンフェルトの生涯』から抜粋しておきます。
「我々はややもすれば、自分を責めず、他を咎めがちだ。、、、、ナチスが権力を座についたとき、それを阻止しようとしなかった。何もしなかったのだ。我々の理想を欺き、個人の自由や民主主義と宗教の自由と言う理想も、欺いた労働者は追従し、教会も傍観するだけだった。中産階級も指導的インテリ層もあまりにも臆病だった。労働組合が潰されるのをただ見ていた。様々な宗派が抑圧されているのも黙認した。やがて、新聞でもラジオでも自由な発言ができなくなった。そうやって、我々は自ら戦争への道に飛び込んでいったのだ。」(ワルシャワ日記、1943年7月6日)
ある日、スポーツ施設近くのポーランド協会を訪れると、ちょうど子供たちのためのミサが行われていた。ホーゼンフェルトはすぐに、子供たちに取り囲まれた。スポーツ広場で彼を見知った何人かは挨拶に来た。「彼らは私を見ると歓迎してくれたある少年は、教会堂を駆け抜けてきて、私のそばに座りずっと笑顔を向けていた。」ポーランド人の篤い信仰心は心に響いた。「信心深い人々の経験な問いは、なんと居心地の良いものだろう。全てが自由で自然に行われた。」
ワルシャワ蜂起が失敗し、街が灰燼に帰した時の、ホーゼンフェルトのメモが残っています。
「ゲットーはいに最後まで残っていたユダヤ人住民も、とうとういなくなった。親衛隊の舞台長が、燃える家から飛び出してきた。ユダヤ人を撃ち殺したと自慢していた。ゲットー全体が焼け跡になっている。我々はこうまでして勝利したいのか。人でなしだ。こんなおぞましいことをしたら、戦争は負けだ。とんでもない恥をさらした。どんな罵声を浴びせられても仕方がない。我々は慈悲に値しない。みんな共犯だ。恥ずかしくて街を歩けない。ポーランド人は皆、我々に唾を吐きかける権利がある。毎日ドイツ人兵士が撃たれている。自体は悪化するだろうが、文句は言えない。すべて我々のせいなのだから。」
残されたメモからは、ワルシャワ蜂起を目の当たりにしたドイツ将校ホーゼンフェルトのやるせない慟哭が聞こえてきます。
考察・シュピルマンを救ったドイツ将校ホーゼンフェルト大尉のその後
シュピルマンを救ったドイツ将校のその後
映画を見た誰もが、「シュピルマンを救ったホーゼンフェルト大尉が、その後どうなったのか?」知りたくなるに違いありません。
書籍『「戦場のピアニスト」を救ったドイツ国防軍将校ヴィルム・ホーゼンフェルトの生涯』に細かく書かれていますので、その答えを書いておきます。
ソ連軍の捕虜となったホーゼンフェルト大尉は、将校でもあったので、あちこちの捕虜収容所を移送させられました。そして、過酷な環境から次第に体力を消耗、極度のストレスからくる心臓病を患い、1952年8月13日にスターリングラード(現在のヴォルゴグラード)の捕虜収容所で没しています。
第二次世界大戦が終わってから7年、シュピルマンとホーゼンフェルトの出会いから8年もの歳月が流れていました。
ホーゼンフェルト顕彰
しかし、ホーゼンフェルトの為した命の偉業は、彼の命の終焉で終わるものではありませんでした。
映画が世に出された後に、ホーゼンフェルトを知る人の尽力によって、顕彰され始めたのです。
映画公開から5年を経た2008年、ユダヤ人追悼記念館ヤド・ヴァシェムにおいて、ヴィルム・ホーゼンフェルトは「諸国民の中の正義の人」として極めてスペシャルな顕彰をされています。
この称号は、命をかけてユダヤ人を救った非ユダヤ人に対して、ユダヤ民族が贈る最高の栄誉である、、、とされています。
考察・このセリフ字幕は要注意!
本『「戦場のピアニスト」を救ったドイツ国防軍将校ホーゼンフェルトの生涯』において、映画の字幕に対しての言及があります。
なるほど、と思いましたので、そのまま転載しておきます。
「ホーゼンフェルト氏は、シュピルマンに対して、映画の字幕のように侮蔑的に『お前』(du)あなたと呼びかける事は決してありませんでした。彼は常に敬意を込めた『あなた』(Sie)を使っていました。
「おい、お前」と「あなた」では人となりの表現が違ってきますよね。映画の中でのホーゼンフェルト大尉の表情はとても柔らかいものがありました。やはりぼくも『あなた』があっているように思います。
ホーゼンフェルト大尉のことについてかなり触れてきましたが、ここからは映画のあちこちでぼくが気になったり、ハッとしたことを書いておきます。
考察・ユダヤ人ゲットー内の冷徹表現
ゲットーとは、平たく言えば、「収容区域」です。煉瓦塀で囲まれた狭いエリアにユダヤ人は、無理やり移住させられたのですが、映画ではその過酷さがきわめて冷徹な目線で描かれています。
シュピルマンが歩きながら会話しているその足元に転がる餓死した死体。周りの誰もその死体に見向きもしない、、、そんなシーンが続きます。
転がる死体が、あたかも放り出されたゴミか何かのように無視される日常。それは「戦争」、「支配」、「抑圧」がじわじわと人の心を蝕む果てにあるもの、でしょう。
その視点の冷たさは、ゲットー体験のあるロマンポランスキーのこだわりでしょう。冷たい視点は戦争で変わる人間の心を射抜く冷徹な楔だと、ぼくは感じています。
考察・貨車に詰め込まれたシュピルマンの家族のその後は?
シュピルマンの家族は貨車に詰め込まれた後、どうなったかも気になる方は多いでしょう。映画では家族のその後は描かれません。だからでしょう、ネットでは「シュピルマンの家族はどうなったの?」という疑問が見られます。
シュピルマン自身、家族のことを語ろうとしなかったようです。それはホロコースト、ジェノサイドにやられたに違いない家族を思い出すのがあまりに辛かったから、、、生き残った自分自身への罪悪感からだったのでは…とぼくは思っています。
誰だって、突然に家族が収容所列車に押し込まれ、自分だけが助けられて生き延びたら、そして家族が送られた先では大量虐殺が行われていたことをしったなら、シュピルマンと同じく話したくない気持ちになるのではないでしょうか?
多分、間違いなく、シュピルマンの両親、兄弟家族は、悲しいかなアウシュビッツで殺された、、、のでしょう、、だからこそ、生き残ったシュピルマンは口をつぐんでいた、、、それがぼくの推測です。
考察・なぜキャラメルを六等分したのか?
この映画でもっとも印象に残ったシーンはどのシーン?と問われたならば、即座にぼくはこう答えます。
「一粒のキャラメルを六等分にするシーン」です
収容所に連れ去られる前に、広場に集められたユダヤ人たち。その間を一人の少年がキャラメルを売り歩きます。シュピルマンの父親は家族に有り金を出させ、それでキャラメルを買います。しかし、たったの一粒です。
その一粒を小さなナイフで、小さな六つのかけらにして、家族皆が分け合います。
このシーンが何を意味しているのでしょうか?
ダビデの星は六芒星です。
一家の長が一粒のキャラメルを6つに分け、家族に分け与えたことで、「どんなに小さな存在になったとしても、世界に散ったユダヤ人は生き抜いていく、、、」というメッセージを、あのキャラメルのシーンは暗喩しているように、ぼくにはおもえるのです。
『戦場のピアニスト』解説
映画のクライマックスとラストで演奏された曲は?
さて、考察解説もこの章で最後です。気になるピアノで弾く曲名について書いておきます。
髪も伸び放題で痩せ細ったシュピルマンが、ホーゼンフェルト大尉に「何か弾いてくれ」と請われてピアノの前で弾くクライマックスで演奏される曲は、曲名がインサートされることはありません。なので調べてみました。
ホーゼンフェルト大尉を前に演奏する曲は、ショパンの「バラード第1番」です。
映画史に残る美しいシーンと言ってもいい、とぼくは思います。
廃墟の演奏シーンに見る神の見えざる手
このシーンを見て、ぼくはいくつかの宇宙の真理を感じました。
爆撃砲撃で破壊の限りを尽くされたワルシャワの廃墟に彷徨うシュピルマン。彼がホーゼンフェルトと出会ったのは、屋根も落ちた一軒の家屋です。
しかし、そこに、ピアノが「壊れずにあった」という歴史的な事実。
この事実にぼくは神の見えざる導き、、、いや、神のいたずら、、、のようなものを感じ、背筋がざわつきました。
そのピアノの前に座り、逆光の中バラードを弾くシュピルマンの神々しさは、言葉にならない美しさでした。
映画ラストの曲目
末筆ながら、映画のラストは、ショパン作曲の『アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 作品22』より「ポロネーズ」で幕となります。
『戦場のピアニスト』ぼくの評価は?
『戦場のピアニスト』を理解するキーワードに「助ける」という言葉がある、と、ぼくは思っています。
映画を見ればわかりますが、シュピルマンは「他人の助け無くしては生き延びることはできなかった」でしょう。
そして、最後に、シュピルマンはなぜ敵国のドイツ軍人から「助けられた」のでしょうか?
戦場のワルシャワという混乱と破壊、蹂躙、非人道の極地にありながら、敵国兵が芸術家を助け出した、、、そんな絶対的にあり得ない助けという事実。「助け」はどこにでもある。だから、逃げろ。そんなメッセージをぼくはこの映画から受けとりました。
この映画の描いた本質は、四半世紀の時代を超えてなお輝きが増しています。
世界が再び混迷の時代に入ってしまった2025年において、多分、作家ロマン・ポランスキーの思索、思惟さえもすでに越えてさまざまな見方ができる、とぼくは考えます。
芸術作品とは、時に、時代との交歓によって、作家が練り込んだ血肉以上の発露を生み出します。
宇宙秩序との調和に至った作品には、特にそんな傾向が強いと思っています。
この映画はそんな稀有な作品だとぼくは捉えています。ぼくの評価は星五つです。
『戦場のピアニスト』スタッフ・キャスト・データ
スタッフ
- 監督:ロマン・ポランスキー
- 脚本:ロナルド・ハーウッド
- 原作:ウワディスワフ・シュピルマン
- 音楽:ヴォイチェフ・キラル
- 撮影:パヴェル・エデルマン
- 編集:エルヴェ・ド・リュズ
キャスト
- ウワディスワフ・シュピルマン:エイドリアン・ブロディ
- ヴィルム・ホーゼンフェルト:トーマス・クレッチマン
- ヘンリク・シュピルマン:ダニエル・カルタジローネ
- レジナ・シュピルマン:ウルスラ・ドブローヴスカ
- ハリーナ・シュピルマン:ミハウ・ジェブロフスキー
アカデミー賞受賞歴
第75回アカデミー賞で、エイドリアン・ブロディ:主演男優賞、ロマン・ポランスキー:監督賞、ロナルド・ハーウッド:脚色賞を受賞。
エイドリアン・ブロディ、2025年にホロコーストを扱った映画で2度目のアカデミー主演男優賞受賞
第97回アカデミー賞でシュピルマンを演じたエイドリアン・ブロディは、『戦場のピアニスト』に続いてホロコーストを扱った『ブルータリスト』で再び主演男優賞を受賞しました。
受賞式では、記録に残る、次のようなロングスピーチを残しています。
「…わたしは、戦争、そして組織的抑圧、反ユダヤ主義や人種差別などによるトラウマや影響を代弁するために再びここに立っています。よりたくましく、よりハッピーで、よりマイルドな世界になることを心から願っています。私たちは過去から何を学べるでしょうか?学ぶべきこと、それは、憎しみの根を絶やすことだと思います…」
全部で5分40秒の超ロング受賞スピーチとなったそうです。
『ブルータリスト』は、ホロコーストを生き延びてアメリカへ渡ったユダヤ人建築家(演・エイドリアン)の数奇な半生を30年にわたって描いた人間ドラマ。監督は、ブラディ・コーベット。3時間35分の長尺。(記事公開/2025年3月5日)
追記1:『「戦場のピアニスト」を救ったドイツ国防軍将校・ヴィルム・ローゼンフェルトの生涯』の感想
『戦場のピアニスト』は、映画だけで完結させるには、非常にもったいないコンテンツです。
というのも、あらすじにも書いてありますが、ドイツ国防軍将校ホーゼンフェルト大尉の存在が、シュピルマンの命を救ったと言っても過言ではありません。
そのホーゼンフェルト大尉の人となりが、映画公開から十数年経った2017年に一冊の本として出版されたのです。タイトルは『「戦場のピアニスト」を救ったドイツ国防軍将校・ヴィルム・ローゼンフェルトの生涯』。
この本は白水社から出版されましたが、残念ながら絶版です。しかし図書館にはあると思います。ぼくは古本で求めました。
『こんなにも尊くも気高い精神を持ったドイツ国防軍将校がいたのか?シュピルマンはホーゼンフェルトの存在がなければ、歴史から消えていたに違いない、、、』
これがぼくが本を読んだ感想でした。
『戦場のピアニスト』を映画で観る→図書館に行く→『「戦場のピアニスト」を救ったドイツ国防軍将校ヴィルム・ローゼンフェルトの生涯』を借りる。→読む、、、
たった一冊の本を読むだけで、『戦場のピアニスト』の世界が数倍に広がり、また、ドイツ兵にもユダヤ人を救った人がいたんだ、、、という、今まで「もしかすると、そんなひとも、もしかして万が一いたんじゃないかな、、、」という淡い憶測が、衝撃の事実として目の前に広がるんです。
※注 『「戦場のピアニスト」を救ったドイツ国防軍将校ローゼンフェルトの生涯』は白水社から2017年に出版されました。出版社に直接在庫を問い合わせましたが、残念ながら絶版で再販予定はないとのことです。 Amazon等オンラインネットショップでは中古で高値になっていますが、2025年現在、古本入手可能です。
追記2:日本にわたり教鞭をとっていたシュピルマンの長男
歴史学者で元九州産業大学国際文化学部教授でした。日本史に造詣が深く、日本近代政治思想史の研究者でもありました。
18歳の時にポーランドから英国リーズ大学に留学、この時に始めた柔道が縁となり、1976年に松江に来て英語塾で教えたのが日本との縁の始まりのようです。
数度の、日本の大学での研究来日を経て日本人の歴史学者と結婚、 2005年4月から2015年3月まで、九州産業大学国際文化学部教授でした。
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