ぼくは『僕はラジオ』が実話だということを、観終わってエンドロールではじめて知りました。『僕はラジオ』の舞台設定は、アメリカの地方都市。時代は1970年代。ハイスクール教師と知的障害を持つ青年、そしてまわりをかこむ人々との葛藤、心の動きを描いています。
知的障がいを持つ人への向き合い方が今よりずっと試されていた時代に、一人の男がとった行動。彼の行動は反発も招きます。はたして町の人々の意識は変わるのでしょうか?? この記事では、映画『僕はラジオ』に込められた、隠れたメッセージも読み解いてみます。
まずは最初に『僕はラジオ』予告編です。
『僕はラジオ』あらすじは?
以下、簡単に『僕はラジオ』のあらすじを書いておきましょう。
『僕はラジオ』の舞台はサウスカロライナ州にある小さな町アンダーソン・ハナハイスクール。
知的障害を持つ青年と、ハイスクールの教師兼アメリカンフットボール部コーチのジョーンズが練習場のフェンス越しに出会う。
障がいを持っていることに気づいたコーチ・ジョーンズは青年に声をかけ、部のサポートをさせることにする。
青年はラジオが好きなことから、「ラジオ」と呼ばれるようになる。
ラジオは障がいはあれど、その正直さ、ピュアさからフットボール部の仲間だけでなく、ハイスクールの皆に好かれるようになる。
しかし、ラジオが学校内にいることを快く思わない人々が彼の出入りを阻止しようと画策する…
という筋です。ラストエンドクレジットでは、現在のラジオの姿=ハナハイスクールのサポーターとして認められている実際の写真=が映し出されて終わります。
『僕はラジオ』あらすじ続き~以下ラストネタバレ。閲覧注意です
ここには『僕はラジオ』のあらすじのラストまでを書いておきますが、ネタバレです。閲覧注意です。本編を見たい方は飛ばしてください。
部員の親の一人が、試合の負けはラジオのせいで部活に集中できない結果だ、と、主張。
部員は女子更衣室へ行けとラジオをそそのかし、ラジオは悪気なく女子更衣室に入ってしまい騒ぎとなる。
女子更衣室へ障がい者が入ったということがPTAと学校理事会の間で問題とされ、
ラジオは学校から締め出されそうになる。
しかし、ジョーンズは真実を探りだす。
さらにはジョーンズがなぜ、障がい者のラジオをそこまで庇うかが明かされる。
それは少年時代、新聞配達中に目にした柵に閉じ込められた障害者を見てみぬふりをしたことの償いだった。
ジョーンズは、親たちがラジオを学校に入れるべきか入れないべきかを決める会合に乗り込み、
自らの思うところをつげ、部のコーチを辞することを親たちに伝える。
ジョーンズの言葉に、ラジオが大切な存在だったことに気がついた親たち、そして学生たち。
校長はラジオを名誉学生として在籍することを提案する。
卒業式のハレの日、制帽とマントを羽織ったラジオが学生たちに卒業証書を手渡すラストで映画は終わる。
『僕はラジオ』感想〜観ようと思ったワケ
ぼくは『僕はラジオ』をPrime video配信で観たのですが、観た理由は簡単。エド・ハリスが好きな俳優で、告知ビジュアル画像のエドの「なんか、エド・ハリスの雰囲気、いつもと違うぞ」と思ったから。
だいたいエドはちょっと悪の匂いがするとこが好きだったりしますが、ビジュアルの彼の笑顔は違ってました。
ビジュアルに写っているもう一人の黒人はアメラグのヘルメット被ってるから、「スポーツモノか?どんな映画なんだ?」と、内容まったく知らずにプレイ押してました。
配信はこういう見方ができるからヨイです。
『僕はラジオ』感想〜障がい者を演ずるということ
『僕はラジオ』がはじまるやいなや、「えっ?知的障がい者主人公?そういうテーマなの?」と、なんとなーく抱いていた「スポーツものハートウォーム系」の先入観をまずは捨てることになりました。
主役の知的障がい者「ラジオ」を演じる俳優・キューバ・グッディングの演技が光っています。
彼の映画は『ザ・ダイバー』くらいしか観ていませんでしたが、今回、まったく彼だとわからなかったです。
以前、『コーダ 愛の歌』という聾者をテーマにした映画を観ましたが、俳優が実際の聾者俳優だったと知って驚いたことがありました。なので、「ラジオ」役も同じく障がいを持つ俳優さんがやっているのかな、とさえ思いました。
『僕はラジオ』冒頭、彼はショッピングカート押してウロウロするだけなので、特段すごいことをするわけではないんですが、そのシーンから彼の演技に引っ張り込まれました。
過去、障がい者役の演じた映画といえば、『レインマン』でのダスティン・ホフマン、『ギルバート・グレイプ』のレオナルド・ディカプリオ、『わらの犬』のデビッド・ワーナーあたりが、ぼくはパッと思い浮かぶところですが、どの作品も障がい者と健常者の絡みがドラマを深くしてます。(ちなみに『レインマン』も『ギルバート・グレイプ』も『わらの犬』も『僕はラジオ』とは違い、フィクションです)
『僕はラジオ』正直感想〜ザワザワ感
『僕はラジオ』は、知的障がいを持つ主人公ラジオと、ラジオにできる限り正直に接しようとするコーチ、ジョーンズ。そして2人に関わる町の人々の間でドラマはすすみます。
観ているあいだ、ぼくはなぜかずっと「サワサワ」し続けていた。
なぜだろう?と思いながら、それでも観続けていて、中盤、はた!と、気がついた。
ぼくらのリアルな暮らしの中で、障がいを持っている人と自分の間にとる、ドギマギした距離って、ありませんか?。
ぼくは、正直、あります。
さらにぼくは、決してその距離をつかむのが上手ではないです。
スクリーンに進む物語と自分の間に、そのドギマギした距離が重なって、サワサワしていたのです。
そのぼくがリアルに感じる距離は、映画の中でラジオに接する町の人々の距離でもあります。
ザワザワしていたのはそれだと気づいたら、なんだか恥ずかしくなりました。
恥ずかしがる必要ないんだけどね。
『僕はラジオ』に教えられたこと
『僕はラジオ』ではなくとも、誰でも人生の中で、自分とは違うタイプの人との出会いに戸惑うことがあります。
それは、会社の中でのイヤな上司だったり、ソリが合わないサークルの仲間だったりと、数え上げればキリがありません。
それでも心の中で折り合いをつけて暮らしていきます。なんとかかんとか。
この映画のジョーンズとラジオを取り囲む人々は、当然ながら理解ある人ばかりではありません。
ドラマはそんな人々の存在でぶつかり合いが起こります。
どんなふうにかというと、『僕はラジオ』の劇中、ラジオを護るジョーンズへの風当たりが強くなっていきます。
しかし、ジョーンズはジョーンズなりの折り合いつけます。折り合いとは、直訴だったり、身を引くことだったり、ある時は胸ぐらを掴むことだったりします。
しかし、ドラマは結果、良き方向へと向かいます。
「ラジオ」という町に入り込んできた異分子が、町の人々にさざなみを立て、ドラマを作り出し、関わる人を前に押し進めるのです。
このパターンは実は日常の中でぼくらの生活にも「自分と違うタイプと出会ったことによる戸惑い」というカタチでひんぱんに起こっていることなのです。
ただ、僕らの日常は、日々何気なく通り過ぎていく。決して「ドラマ脚本」として書いていないので、日常が知らぬうちに流れているのです。
日々の日常に「映画みたいだな」って視点をかえてみると、生きることが「映画」のように見えてくるのではないかと思います。
そのように考え方をチェンジすることで、平凡な日々を生きることは、実は導き(別れ道)に満ちていてキラッと輝くように思えます。
『僕はラジオ』考察〜なんで「ラジオ」?
『僕はラジオ』の映画の中では「ラジオ」の病名は明かされません。ちょっとネットで調べてみたのですが、「自閉症スペクトラム」なのかな?と思いました。
「自閉症スペクトラム」は、同じこと繰り返したり、一つのことに強く興味を持ったりするのがその特徴のようです。(あくまでぼくの推測。専門家ではないので鵜呑みにはしないでください)
ラジオを聴く行動を好んで繰り返し、名前を聞かれると「ラジオ」と答えてしまう。
結果、彼は皆から「ラジオ」と呼ばれることになります。
「はは~ん、だから、タイトルが『僕はラジオ』なのか」と思いましたが、いや、待てよ、あまりに直球すぎるぞ、もっと深い意味があるんじゃないか?…と、「ラジオ」を辞書で調べてみました。
『僕はラジオ』考察〜だから「ラジオ」!
「ラジオ」の意味と語源を辞書に調べてみると、当然「音波の受信機、増幅器の意味」だと最初に書かれています。
さらに調べてみたら、『輝く、光を放つ、輝かせる」という意味があるんですね。
語源はradius=「光の線、車輪の軸と輪とを放射状につなぐ細い棒・車輪のスポーク」です。
radiusはもともと【ラテン語】です。「車輪の軸と輪とを放射状につなぐ細い棒。一筋の光。光線」とでています。
「輝き」でもって、タイトルの「ラジオ」を訳してみると、ストンと納得しました。
そう、『僕はラジオ』は、『輝く』という意味を込めた映画だったのではないか???。
そういう「輝く」という意味を込めたタイトルだと視点を変えると、この映画は違って見えてきました。
「輝く」のは、ラジオだけではなく、ラジオとスポークでつながっている、車輪のような「登場人物全員」の物語、そしてその車輪=サークル輝くための物語に他ならないんだ。と。
『僕はラジオ』きれいごとですますな、という声
今の時代、ハンディキャップを持つ人々への意識が良い意味で急速にかわってきていると感じます。
なので当然、映画『僕はラジオ』に対して「きれいごとですますな、障がい者との関わりはそんな甘いもんじゃない」という声もまた聞こえる気がします。
それもまた一つの感想として、わかります。
でも、ぼくはこう考えます。
映画カルチャーは、いわばサッカーボールのような多面体です。ジャーナリズムの面もあるけれど、それがすべてではありません。
映画は、障がい者問題への問題提起はうながすけれど、行政を告発したり、社会との格差や距離を解決する手段ではありません。(ドキュメント映画は別です)
社会問題提起と、問題解決への道筋示すことが本業のジャーナリズムとは異なると思うのです。
映画というものは、観客それぞれが違った価値観を持ち、少しずつ違った視点でドラマを見ています。
どういうことかというと、
『僕はラジオ』をみたある人は、ジョーンズの行動に感化されるかもしれません。
『僕はラジオ』をみたまた別の人は、ジョーンズでもラジオでもなく、校長の立場に感情を入れ込むかもしれません。
観る人それぞれがそれぞれに「何か」を受け止めれば良いのだと思います。
『僕はラジオ』ぼくの評価は?
この映画『僕はラジオ』が言いたかったことは、「ラジオは、とりまく皆を映しだす鏡だった」ではないかと思っています。
ぼくがこの実話の映画『僕はラジオ』と出会い、もらったものは、
「人間とは、自分と違ったタイプをなかなか受け入れないものだ。障がい者に限らず、自分とは異なるタイプのさまざまなを人々を赦し、認めなさい」でした。
以上のように、『僕はラジオ』は映画の筋を楽しむだけではなく、いくつもの考え方をくれました。
僕の評価は80点。マイナス20点は実話だけに物語の起伏をこれ以上つけようがなかったことと、ジョーンズのラジオを守る理由が途中からなんとなくわかってしまい、明かされるシーンが「ああ、やっぱりそうだったんだ」…と意外性がなかったことです。
でもね、事実だからしょうがないですね。
『僕はラジオ』監督・キャスト
監督:マイク・トーリン
キャスト:キューバ・グッディング エド・ハリス アルフレ・ウッダード デブラ・ウィンガー 他
『僕はラジオ』配信は?
サービス | 無料期間・料金(税込) | |
Prime Video | 見放題・レンタル | 初回30日間無料 500円 |
U-NEXT | 見放題 | 初回31日間無料 2189円 |
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