映画『セッション』解説|ラストは?ネタバレ評価|ひどい?最低?独自考察レビュー

音楽・ミュージカル・ダンス

こんにちは!映画好き絵描きのタクです。今回取り上げる映画は『セッション』(原題: Whiplash)。2015年公開のアメリカ映画です。名門音楽院に入学してきた19歳の学生ドラマ一と泣く子も黙る超絶厳しい指導者のドラマです。

と書くと、シンプルな起承転結の若者成長物語かと思われがちですが、そうではありません。おまけにネット上では「ひどい!」「最低」のコメントも見受けられます。

しかし、「こう来るか!」という形にはまらないドラマ展開は秀逸。最後までグイグイ引っ張る脚本は機関車級。

ぼく自身、吹奏楽部でトランペットを吹いていましたが、劇中の指導者の厳しさに対する冷や汗感、指揮者を前にしたプレイヤーの緊張感表現には脱帽です。

映画ファン、音楽ファンはもとより、表現の厳しさがテーマになっているだけに、全てのクリエイター必見の映画といってよいでしょう。




『セッション』予告編

『セッション』解説

『セッション』(原題: Whiplash)2014年公開アメリカ映画。
監督・脚本はデイミアン・チャゼル。キャストはマイルズ・テラー、そしてJ・K・シモンズ。第87回アカデミー賞でJ・K・シモンズの助演男優賞を含む3部門で受賞しています。

原題の〈Whiplash〉はジャズの有名曲のタイトルで「ムチ打ち症」の意。劇中で何度かプレイされる曲の一つです。

原題「ムチ打ち症」を邦題で『セッション』と置き換えた映画配給先のセンス、絶品!だと思いました。映画の世界では原題直訳邦題ももちろんあります。が、「ムチ打ち症」では観客の足を劇場まで引っ張るのが難しいですもんね。



『セッション』ネタバレあらすじ

アンドリュー、鬼指導者に会う

主人公は19歳のアンドリュー・ニーマン。プロのジャズドラマーになるべく、名門シェイファー音楽院へ入学する。
アンドリューの父ジムも、良き理解者だ。

練習室でアンドリューがドラムを叩いている。
そこに現れたのは、指導者と名高いテレンス・フレッチャーだ。
「レッスンに加われ」と言葉を残してフレッチャーは去る。

レッスンの日が来た。始まるや否やフレッチャーはバンドメンバーに罵詈雑言を浴びせはじめ、1人を退場させる。
フレッチャーは鬼指導者だった。
アンドリューもテンポのずれを指摘され、椅子を投げつけられる。
さらに容赦なく浴びせられる屈辱的な言葉にアンドリューは踏みにじられる。
しかし猛特訓で次のレッスンに挑むアンドリュー。
スティックを持つ手は血まみれだ。しかしアンドリューは叩くことを諦めない。そんな日が過ぎていく中、ある日、バンドはとあるコンテストに出場することになる。
アンドリューは主奏ドラマーであるタナーの楽譜めくり係だ。ところがあろうことか不注意で楽譜をなくしてしまう。
暗譜できない障がいをもっていたタナーは慌てふためく。しかしフレッチャーは許さない。
アンドリューは「ぼくは暗譜している。叩かせてくれ」とフレッチャーに直訴。
アンドリューは無事演奏し、バンドがコンテストに優勝。
フレッチャーは翌日から主奏ドラマーにアンドリューを指名する。

試練

フレッチャーから認められた、と思い込むアンドリュー。
しかしそれはただの思い込みに過ぎなかった。
フレッチャーはアンドリューにさらに厳しい試練を課す。
それは実力が低いドラマー、コノリーを持ち上げ、フレッチャーを譜めくりに下げることだった。

「ドラム以外の事を考えているヒマはない」と
恋人ニコルとも一方的に別れ、ドラムの練習にのめり込むアンドリュー。

フレッチャーの指導はさらに厳しく過酷になってゆく。
あるコンペティションを控えたレッスンで、アンドリューらドラムチームはスピードを競わされる。
超絶な叩き方を求めるフレッチャー。
倒れるまで叩き続ける3人。結果、アンドリューは主席ドラマーの地位を獲得する。

潰えるプロへの夢

コンペティション当日、あろうことかアンドリューは不可抗力で演奏時間に間に合わない失態をおかす。
挙げ句の果てに交通事故を起こし、血まみれになりながらステージに駆けつけるアンドリューは、代わりのドラマーとしてスタンバイしていたコノリーを押しのけドラムに向かう。
しかし大怪我だ。演奏などできるわけがない。
ひどいプレイと失態にフレッチャーは演奏をストップ。
「お前は終わりだ」とアンドリューに告げる。
フレッチャーにつかみかかるアンドリューは退場、シェイファー音楽院も退学となる。

プロドラマーへの道が閉ざされ失意のアンドリューを見かねた父は、フレッチャーの厳しすぎる指導に疑問を抱き、講師としての資格剥奪処分を探る…。



『セッション』あらすじラストまで〜見る方は閲覧禁止!

以下はあらすじクライマックスを含むネタバレとなります。映画を観る方は見終わってからご覧ください。

ジャズクラブにて

しばらくしてアンドリューは、とあるジャズクラブの看板にピアノプレイヤーとしてフレッチャーの名前を見つけ、店に入る。
ステージがはね、2人は一杯交わす。
フレッチャーは生徒の密告で辞職となった事を話し、同時に厳しい指導の信念をアンドリューに明かす。
別れ際、フレッチャーはアンドリューにこう告げる。
「JVC音楽祭に出場するが、ドラマーがダメなんだ。代わりに叩かないか?曲目はお前も知っている曲ばかりだ」

アンドリューは引き受ける。
そして一方的に別れを告げたニコルに電話する。
「すまなかった。ジャズフェスティバルを観に来ないか」
しかし電話の向こうのニコルの声は硬いままに、切れた。

フレッチャーの報復

JVC音楽祭はプロへの登竜門だ。
客席にはスカウトも座っている。
ひどいプレイは、即、プロへのチャンスを逃すことになる。

ドラムの前に座り譜面を置くアンドリュー。
しかしフレッチャーが支持した曲目は、今まで演奏をしたこともない演目だった。
焦るアンドリュー。
がしかし、全プレイヤーの譜面台に置かれているのは、その譜面だ。

フレッチャーは音楽院を辞めさせられた原因がアンドリューの証言だと知っていたのだ。

フェスティバルへ誘ったのは、アンドリューの証言への報復=プロへの道を閉ざすためだった。

アンドリューは、中途半端なひどいプレイをスカウトに晒し、茫然とした顔で曲を終える。

フレッチャーは告げる。
「お前には才能がない」
アンドリューは、一人、ステージを去る。

アンドリューの反撃

ステージを降りたアンドリューを、父が抱きしめる。
その時、アンドリューのジャズプレイヤーとしてのスイッチが変わる。

アンドリューは、ステージに引き返すと、フレッチャーの曲紹介を無視し、激しくドラムを叩き始める。
その勢いにベーシストが、ホーンセクションが音を重ね始める。

同調

指揮者であるフレッチャーは戸惑いたちすくむ。が、しかしそんなフレッチャーもドラムの力に飲み込まれ、コンダクトし始める。

アンドリューの気迫がフレッチャーの気迫と同調したのだ。

演奏のクライマックス、二人は心が通じた笑顔で演奏を締めくくる。

そして、エンドロール。



『セッション』はひどくて最低の映画か?考察・1

映画は、観客がそれぞれの過去体験を持って観るという宿命を持っています。

例えば、戦争映画を実際の戦場体験した人は、傑作と名高い映画でも背を向けるでしょう。

また例えば子供を失って心に傷を負った親御さんが、同じような映画を見たなら、やはり世間一般とは違った感情を抱くのが当然です。

『セッション』も、映画の核になっているのは、指導教官の怖いほど厳しい指導の仕方です。椅子は飛ぶ、罵詈雑言はここまでいうか?という凄まじいレベル。そんなやりとりとクライマックスの極めて非道なやり込め方に、ついていけない方が多いのも頷ける映画だと思います。

一方で、同時に、なりふりかまわずくらいついてゆく、というか若者ゆえの視野の狭さで周囲の迷惑顧みずに、夢に向かって掻き分けてゆく姿を、「未だ成長の道なかばだから、あるよなあ」と受け止めることができれば、『セッション』は「ブラックなレッスンワールド」ではなく、一つの成長物語として受け止めることができると思います。

ぼく自身、絵の表現の世界にいますが、かけだしたばかりの頃の「下手くそ!」「やめちまえ!」という今でいうパワハラの世界を体験してきました。しかし、ぼくの場合、表現の世界の姉弟関係にそれは必要なことだったと、今振り返ると思います。

それゆえに、このドラマはぼくには響いてきました。

『セッション』は、見る人の過去体験との対話を、知らず知らずにうながす映画だと思います。

『セッション』は、強烈な個性を持つ映画です。意見が分かれる宿命を持った映画、と言ってもいいと思います。

「ひどい!最低!」そう思う方がいても全然不思議ではありません。ですが、だからと言って駄作!と切り捨てるのはぼくは違うと思っています。

先にも言いましたが「人間ドラマは人それぞれの過去体験で違って見える」のではないでしょうか?

「主人公、ひどいことされるよ、最低なことされるよ。でも、いい映画なんだよね」これがぼくの『セッション』です。

『セッション』考察・2

ちょっと繰り返しになりますが、ぼく自身、世界のジャズプレイヤーとは比べものにならない狭い世界ですが、ひとまず表現の世界に生きています。

だからでしょうか、映画の中のアンドリューの姿を見ていると、恥ずかしながら自分自身が表現に関わり歩き出した若い頃を思い返してしまいました。

どういうことかというと、表現者のスタートからまもなくは「自惚れと挫折の繰り返しだ」ということです。

ちょっとした言葉に「力が認められた!」と大きな勘違いをして舞い上がったり、「なんで周りはわかってくれないんだ!」と実力がないくせに突っ張ったり落ち込んだり。
アンドリューがフレッチャーに声をかけられた時の心の内の舞い上がる感じ。そして、自分では「できているはず」と思っているプレイ(表現)を一瞬でぶち壊される、そんな時の心の内をアンドリュー役のマイルズ・テラーはそれは見事に演じています。

『セッション』が、よくある若者成功物語と一線を引いているのは、そんな表現者のオモテには出てこない恥の部分を大きくクローズアップしてドラマにしているところでしょう。

同時に、そういった成功物語では、若者を導く者、すなわち賢者が欠かせず、フレッチャーがその役割を果たすのが定石ですが、ところがどっこい、『セッション』ではその賢者役が、ひねりにひねられています。

ひねられているどころか、賢者(には見えないけど、やはり導き役なのです)フレッチャーの存在は、とんでもない人間像として、引きちぎられている。

しかしクライマックスの、本当にラスト数分。それまでひねり引きちぎられていた2人の役回りは、まるで手品のように「未来へ旅立つ若者と送り出す賢者」が描かれたタペストリーとして観客の前に広げられるのです。
そのマジックのような脚本にぼくは心底頭が下がりました。

『セッション』見どころ・1 マイルズ・テラーのドラムシーン

主役を演じたのはマイルズ・テラーですが、もともとドラムの経験があったそうです。

映画のドラムシーンにあたり、猛特訓して撮影に臨んだとのこと。実際の音は別のプロドラマーのアフレコということですが、だとしても、痛いほどすごい演奏シーンとなっているのは、マイルズ・テラーの役者としての高い演技力あってのことだと感じます。



『セッション』見どころ・2 J・K・シモンズの手元

厳しい音楽指導者を演じたのはJ・K・シモンズですが、指揮ぶりはもとより、彼の一挙手一投足が見ものです。立っているだけでも、すごい存在感です。

この映画の彼の指揮する姿は、音楽映画史上に残る名コンダクトでしょう。ほんのわずかな手先の動きだけで、練習室内の緊迫感、バンドの張り詰めた空気を表現しています。
その手の振りだけでも、『セッション』を見る価値アリです。

しかし、あの超絶独特な指揮の間合いって、フレッチャー役のJ・K・シモンズはどうやって身体に染み込ませたんだろう?と、ぼくは疑問に思っていました。
そこで、J・K・シモンズのキャリアを調べてみたのですが、納得の経歴だったのです。

それもそのはず、J・K・シモンズは音楽畑出身なのです。

モンタナ大学で作曲を学び、シアトルレパートリー劇場に参加。また、ブロードウェイミュージカルやオペラにも出演しています。

ということで、J・K・シモンズ自身「音楽で客を納得させる厳しさ、怖さ」を身をもって知っているわけですから、あの名演はそんなJ・K・シモンズのキャリアから生まれた表現なんですね。



パブロ・ピカソとJ・K・シモンズ

天才と呼ばれる表現者の凄絶さ

「なんでここでピカソが出てくる?」と思われるかもしれません。

ぼくは、『セッション』を観はじめてすぐに「J・K・シモンズの顔立ちが、天才パブロ・ピカソと被るなあ」と感じていました。

天才画家ピカソの表現がなぜに人を感動させるか?というと、それは、何気なく見えるサラッと引いたドローイングの奥に潜む、表現にこだわり抜いた狂気に近い凄絶さがあるからだ、とぼくは思っています。

顔立ちもどこか二人は似ている…とぼくは感じています。

それゆえに、J・K・シモンズの演技表現に対するこだわりが、ピカソが表現に対してこだわっていたアーティストとしての顔とダブって見えていました。



『セッション』ぼくの評価

四つ星半です。誰にでもオススメしたくなる映画です。特に音楽であれ、絵であれ、文章であれ、表現の世界に足を入れてしまった人にはなおさらオススメします。

星が半分欠けてしまったのは、主人公アンドリューと恋人ニコルの関係がドラマの中で希薄、違和感を感じたことによります。違和感といってもうっすらとした感覚でしたが…。

素晴らしい映画をありがとうございました!

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