関心領域 考察解説|リンゴ・母親の行動・ネガ白黒の謎・煙・そしてラスト暗闇までネタバレレビュー

戦争・歴史・時代

第二次世界大戦時にドイツ・ナチスがユダヤ人絶滅を計画し作った、ポーランドのアウシュビッツ強制収容所。その塀の隣には、収容所司令官ルドルフ・ヘスの住まいがあった。その屋敷を舞台にアウシュビッツの負の歴史を映画化したのが本作の『関心領域』(原題-The zone of interest-)だ。

カンヌ映画祭でグランプリを受賞、他、各国映画祭でも受賞多数の作品だが、これまでのアウシュビッツ〜ひいては強制収容所を取り上げた映画とはどう違うのか?

映画のチラシに書かれているコピーは、「アウシュビッツ収容所の隣に幸せに暮らす家族がいた」

「幸せに暮らしているヘス一家」を捉えるシーンの連続から見えてくる狂気とは?

1992年にアウシュビッツまで旅して実際に見た運営人なりに、その『関心領域』をレビューしてみます。

(ポーランドでは、アウシュビッツは「オシフェンチム」と呼ばれています。が、便宜上記事中はアウシュビッツと記載します。また、アウシュビッツと所長ルドルフ・ヘスの屋敷が登場する一人の女性の物語が『ソフィーの選択』という映画になっています。以下に『ソフィーの選択』レビューをリンクしておきます。



『関心領域』予告編




『関心領域』解説

解説は、以下公式サイトより転載します。

空は青く、誰もが笑顔で、子どもたちの楽しげな声が聞こえてくる。そして、窓から見える壁の向こうでは大きな建物から煙があがっている。時は1945年、アウシュビッツ収容所の隣で幸せに暮らす家族がいた。第76回カンヌ国際映画祭でグランプリに輝き、英国アカデミー賞、ロサンゼルス映画批評家協会賞、トロント映画批評家協会賞など世界の映画祭を席巻。そして第96回アカデミー賞で国際長編映画賞・音響賞の2部門を受賞した衝撃作がついに日本で解禁。

マーティン・エイミスの同名小説を、『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』で映画ファンを唸らせた英国の鬼才ジョナサン・グレイザー監督が映画化。スクリーンに映し出されるのは、どこにでもある穏やかな日常。しかし、壁ひとつ隔てたアウシュビッツ収容所の存在が、音、建物からあがる煙、家族の交わすなにげない会話や視線、そして気配から着実に伝わってくる。その時に観客が感じるのは恐怖か、不安か、それとも無関心か? 壁を隔てたふたつの世界にどんな違いがあるのか?平和に暮らす家族と彼らにはどんな違いがあるのか?そして、あなたと彼らの違いは?




『関心領域』あらすじ〜ネタバレあり

※あらすじはネタバレを含んでいます。映画を見たい方は閲覧禁止です。観劇後にご覧ください。

舞台はアウシュビッツ強制収容所の塀に隣接する屋敷。綺麗に庭づくりされたその家に住んでいるのは、ドイツ軍の司令官ルドルフ・ヘスと妻のヘートヴィヒ。そして3人の子供達だ。

カヤックがプレゼントされるヘスの誕生日にバースデーを祝う部下の軍人たち。しかし、そのすぐ後ろの塀の向こうにはユダヤ人を乗せた列車が入りゆく。収容所脇に流れる川には優雅にあそぶヘスと子どもたちがいる。

そんなのどかなヘス一家の日常と収容所を遮るのは、延々続く高い塀一枚だ。塀の向こうからは、兵士の怒号や叫び声が響き渡り、煙突からは何かを焼く煙が立ち上がる。しかし妻と子供たちは気にしないようだ。妻は美しい庭に執心し、子どもたちは無邪気に遊んでいる。

ヘスの元へ二人の技術者がやってくる。ふたつの焼却炉を稼働させ、効率よく「荷」(遺体)を償却するという新構造を提案する。ヘスは焼却炉の効率化に納得の表情だ。

ある日ヘスは子供たち2人を乗せて近くの川に水遊びに行く。釣りをするヘスの仕掛けに何かが引っ掛かる。それは人骨だ。周囲を見回すと灰が流れてくる。ヘスはあわてて子供たちを家に連れ帰り、体を洗わせる。

眠れずに廊下に座り込む娘。金歯のコレクションを弄ぶ長男。奇妙な声を発する次男。何かがおかしいのだが、塀の隣の日常は変わらずに流れてゆく。

ある日、妻の母親が、屋敷にやってくる。妻ヘートヴィヒは自慢の庭へと母親を連れ出し、案内する。母はしばらく滞在することになる。

だが、母親は、塀の向こうに立ち上る煙、そして音に酒を手放せなくなり、知らぬまに屋敷を出て行く。

そんな日常にヘスの異動通知が届く。綺麗な庭と屋敷を手放すことに猛烈に反対する妻ヘートヴィヒ。妻はヘスに「あなたは単身ドイツに赴任して、私は屋敷に子供達と残る」と頑なに話す…。



考察1〜モノクロシーンの「りんご」の意味は?

そんな映画の中でのモノクロネガのシーンだが、何をしていたのだろう?

ネガ処理されているのではっきりとは分かりにくいが、そのシーンの現場は強制労働の現場、すなわち塀の外だ。

女性が泥の中に埋め込んでゆくのは、多分、次の日に現場にやってくるであろう、粗食ゆえに腹を空かせた収容者のために置いたりんご、なのだ。

塀の外で働かされている彼女が、看守のドイツ兵に気づかれないように…と祈りながら、りんごを差し入れしている、命をかけたシーンである。

考察2〜煙の匂いを嗅いだ母親

意外と意識から外れがちなのが、遺体焼却炉の煙突から立ちのぼる煙の発する「匂い」だ。

映画は視覚芸術だ。匂いは再現できない。

もちろんぼくだって、遺体を焼いた匂いを嗅いだことはない。煙自体、今や嫌われ者となり、日常から駆逐された存在となって久しい。

ぼくのアトリエには古い薪ストーブがあるが、そんな薪を燃やす匂いであっても煙突から漂う煙が発するそれは、即座に嗅覚に訴えてくる。しかし、今や煙るの匂いは「非日常」といっていい。

映画の「煙」は「遺体焼却炉から立ちのぼる煙」だ。ここで想像力を使ってみよう。実際に当時その匂いは、どれほどのものだったのだろう。

そして、ここでヘスの妻の母の行動に視点を移してみよう。

母の表情は全編笑顔がない。さらには次第に酒に飲まれてゆく。

母が、焼却炉の煙を無言で見るシーンがあるけれど、彼女は人を焼く煙の匂いを強く感じていたはずだ。

映画の背景の「音」に、さらに「煙の匂いを想像で被せてゆく」と、そして母が屋敷から去っていった理由が、見えてくると思う。

嗅覚を想像しながらストーリーを追うと、ヘスの家族の「ありえない日常」がさらに理解できるのではないだろうか?

考察3〜白黒シーンは何を意味する?

『関心領域』の劇中、唐突に挟まれるモノクロシーンが2箇所、ある。

ひとつは、V字型に掘られた壕のようなところで、若い女性がリンゴを泥に埋め込んでゆく。

もうひとつは、地面に刺された何本ものスコップの周囲に、やはりその女性がリンゴを置いてゆく。

この劇中異質な2つのカットの意味を読み解いてみよう。

実は、ヘスの屋敷内で働かされていたユダヤ人も存在した。これは事実のようだ。
映画『ソフィーの選択』でも描かれているし、収容者の中にはカポと呼ばれる対独協力収容者がいたのも事実だ。

確証はないけれど、モノクロシーンでネガで表現されるそのリンゴの女性は、ヘスの家で働かされているユダヤ人あるいはポーランド人なのではないか…とぼくは思う。
すなわち、ヘス一家にとってはユダヤ人あるいは敵国人であるがゆえに、確固たる人間存在とは扱われない彼女は、ポジ=実像=の反対のネガの存在でしかない。

モノクロネガシーンは、ドラマの主軸のヘス一家の物語とは離れた、一人の非抑圧女性の物語ゆえに、ヘスのネガの存在=ユダヤ人(ポーランド人)のドラマゆえにモノクロームかつネガティブ処理された映像で差し込まれたのではないか、とぼくは推測している。

考察4〜ネガシーンで拾い出した缶に入っていたものは?

リンゴを泥に忍ばせる女性が、一つの缶を拾い上げる。蓋を開けると「何か」が入っている。ネガ表現ゆえにわかりにくいその中身は、幾重にも折り畳まれた紙だ。

それがなんであるかは直後のカラーのシーンで解き明かされる。

彼女がピアノの前に座り、ある旋律をつまびく。

そのピアノの譜面台の上には、細い折り目が連なる紙が置かれている。

彼女が弾いているのは、収容されているユダヤ人が「誰か、この缶を拾って開けてくれ。中には命を歌った証しが入っているから..」と、置いたものである。

それは五線譜に命の証明を書き記した、切ない「楽譜」だ。



考察5〜音もまた人を狂わす

『関心領域』の映画としての存在意義は、すでに何人もの映画評論家も書いているけれど、「音」が人の潜在意識に刷り込む怖さ、を訴えた点だろう。

舞台設定がアウシュビッツ(オシフェンチム)強制収容所の塀に隣接した、収容所長ルドルフ・ヘスの屋敷であることは、冒頭で書いたとおりだ。

立派な屋敷に暮らすヘス一家の日常が描かれるわけだが、屋敷の傍に延々つづく塀の反対側、すなわち絶滅収容所内で行われている行為の発する音が、くぐもったようにどこまでも響く。

音は、ともすると遥か遠くの街音…どこか遠くの工場の作業音のようにもきこえるが、美しく花が植えられたヘス一家の敷地の数メートル外の強制収容所内で行われている作業や抑圧の音なのだ。

遠くくぐもったように聞こえるのは、高い塀があるがゆえの聞こえ方だ。

時々、「ポン」と響く音は、銃声だ。

それらの音を、『関心領域の』の音響マンは見事に表現した。



考察6〜我々を取り巻く雑音の影響

ここで、我々の普段の日々を振り返ってみよう。
毎日の暮らしの中で、実は我々は、自分とは関係のない無数の音=人工音に取り囲まれて暮らしている。

家の脇の道路を走る車の音や足音。通り過ぎる人の話し声。遠くから微かに響く電車の音。実はそういった自然以外の音が渾然一体となって、我々を否応なしに取り囲んでいる

実は聴覚が鋭い人ならば病気=何らかの症候群に陥ってもおかしくないほどの音の洪水なのだと思う。
さらに環境音は、重奏的だ。
音楽の和音法則など一切無視した形でわれわれの日常に降り注ぐ。

和音に満ちた音楽が人の心を癒すものならば、逆の無秩序生活音重奏が心にどんな影響を与えるのか?

その生活音重奏が潜在意識に働きかける怖さは、想像するに難くない。(ぼくはこれは、研究対象となってもおかしくないテーマだとさえ思う。もしかするとすでに研究されているのかもしれない)

実は、私の仕事場は仙台市内のマチナカと蔵王連峰の森の中の2箇所にある。

毎週半々の割合で、異なる環境で仕事をしているのだけれど、市街地のアトリエから森の中に移動すると、日々、どれだけ人工音に囲まれているのかを気付かされる。

森の中のアトリエは、葉の擦れる音、風の音、遠くを流れる渓流の音、すなわち自然の音以外、人工音が皆無なのだ。
自然以外の音が、本当に、ない。

そのことは人の心を大きく解放させてくれる。
登山やハイキングで人里離れた大自然の中に立ったことがある人なら誰でも経験していることだと思う。

この経験は『関心領域』に一つの理解を与えてくれる。

『関心領域』で聞こえてくる音は、くぐもって意味をほとんどなしていないが、明らかに抑圧と殺戮の音だ。機関車の音。ガス室に送られる音、掻き出された灰を乗せたトロッコの音。銃声、くぐもった叫び声。そういった「音」だ。

戦争映画で表現される音響=戦場の爆発音や機銃音、兵士の悲鳴=とはベクトルは正反対だけれど、塀の向こうで静かに進められているのはユダヤ人絶滅計画であり、音の本質は、大量に命を消し去る作業音なのだ。

無意識のうちに聞こえてくる「日常音」を、それと知らずにシャワーのように浴びることが、一体どういうことなのか?という問いを『関心領域』は我々に突きつけている。

その答え映画の中に探すならば、劇中途中から登場するヘスの母親が説明役となっている。

途中、ヘスの屋敷にやってきた母親は次第に無表情となり、浴びるように酒を飲みはじめ、挙句に何も告げずに家からいなくなる。

この母親の、劇中の役割はまさに「無意識下に日々殺戮の音を聞かされ続けた人間の姿」だ。



考察7〜長男のコレクションの金歯、そして末っ子の奇妙な発声

ルドルフ・ヘスには子供が二人いるのだが、その子たちの日頃の行為に「殺戮の日常音」が影響を与えている描写も、さりげなくも怖いシーンである。

長男が金歯をコレクションしているシーンは、隣でユダヤ人が殺されているという直接的表現だ。

読者の中にはアウシュビッツ強制収容所でどんなことが行われていたのかを知らない方もいると思う。もちろん知らなかったとしても、決して恥ずかしいことではない。

そんな方の理解を深めるために、以下に、なぜ金歯が映画の中に登場したのかを書いておこう。

アウシュビッツ収容所では、ガス室に送られ殺されたユダヤ人の遺体からは、メガネ、義手、義足といった類い、そして金歯が抜かれていた。これは歴史的事実である。

長男がまるで玩具箱から取り出した宝物のように転がしている「金歯」は、遺体から抜き取られた金歯なのである。

また末っ子の、時折発する奇声も聞き逃すことはできない。

その奇声は塀の向こうから聞こえてくる音を真似、発している声だ。

もちろん末っ子は、塀の向こうで何が起こっているのか教えられていないのだろう。しかし、子どもならではの直感で「触れてはいけない何か」があることに気づいている。

ふと口をついて出る奇声はその発露だ。

そして物語が続くにつれ、末っ子は「触れてはいけない何か」は「殺戮の気配」であることにも気づき始める。しかし彼はイノセントなままだ。

イノセントのままに感じている殺戮収容所の気配が、子どもをフィルターとして映画を観ている我々に届けられるという、なんという演出の見事さ。

「アウシュビッツ」の内側で行われていることを、子どもを媒介にして表現するとは、殺戮という具象の見事な抽象化としか言いようがない。



考察8〜アウシュビッツ殺戮収容所=負の遺産への新視点〜「今の音」

『関心領域』は、もちろんアウシュビッツの悲劇を、新たな視点から掘り起こしている。
映画は、「平凡な日常と殺戮は、実は薄い際どい膜で隔てられているだけだ」と、ルドルフ・ヘス一家の淡々とした日常からあぶり出す。

しかし同時に劇中描かれるヘス一家の日常が、我々を取り巻く平凡な日常にも繋がっていると気づく時、『関心領域』は新たな一面を見せ始める。

その一面に気づかされたのは、クライマックス近くに唐突に差し込まれる「今」の「アウシュビッツ収容所」のカットだ。

アウシュビッツをテーマにしているこの映画であるが、それまでにカメラが収容所内を映し出すことは一切、ない。

クライマックスで嘔吐するヘスが暗闇に視線を送り、その直後「はじめてカメラが塀の中に入る」のだ。(この構成の凄さ)

そして、殺戮収容所の展示品である遺物=殺された人々の衣服や義足といった遺品の山=が写し出されるのだけれど、そのシーンで監督があぶり出したのは、遺品以上にやはり今のアウシュビッツ収容所内の「日常音」なのだ。

館内に掃除機をかけ、窓を拭くといった、「今の日常音」こそが、それまでの映画にずーっと響いている塀の内側の音に対する「問いかけ音」ではないかとぼくは感じている。

ヘス一家の屋敷内に響いてくる塀の内側の殺戮日常音に対比するようにクライマックスで響く、資料館を掃除する掃除機の音、窓を拭く音。

どちらも「ただの音」だ。

人という存在は、多分に自身の周りを取り囲む「音」もが構成要素なのだ…

ぼくは監督が『関心領域』に託したのは、ただ単に「負の遺産アウシュビッツではこんなことがあったんだ」という証明だけではなく、新たな視点で見直す必要がある、というメッセージだと感じている。



 

考察9〜嘔吐するヘス

映画の後半でヘスはわかりやすく言えば、単身赴任となり屋敷を去るが、ドイツ本国のシーンで嘔吐する場面がある。

これは「殺戮の音」に無意識のうちに晒された人間の素直な反応=姿なのだろう。

ヘスの嘔吐シーンが、彼が見据える暗闇に転換し、その暗闇に小さな光が現れ新たな扉となって開き、現在のアウシュビッツへと転換する。(このシーンは、明らかに製作陣から現在に生きるぼくらへのノック、そして問いかけだ。)

暗闇から現代への突然の転換は、ヘスの嘔吐と画面を見つめるヘスの目線は、明らかに今に生きる我々への問いかけを意味している。

彼の嘔吐は、ただ単に無意識のストレスが胃に及ぼす作用を表しているだけではない。

では、嘔吐とたちすくむヘスの意味はなんなのか?

それは、今に生きるぼくらに「嘔吐する覚悟せずにアウシュビッツの何が伝えられようか?」という製作陣の握りしめた硬い拳と強いメッセージだ。ぼくはそう感じている。

ぼくは、このとつぜん現れた現在のアウシュビッツシーンに、過去アウシュビッツを訪れた日の忘れかけていた記憶を無理矢理心の奥底から引っ張り出され、鼓動が早まった。

30年も前のその日、ぼくはアウシュビッツで明らかに強烈な負のエネルギーを感じていた。

数々の遺品が展示させる部屋を見、ガス室の中に足を踏み入れ、収容所内を移動するほど気持ちは沈んでいった。

そしてその日、ぼくは丸一日、何も食べることができなかった。

それは今にして思えば、嘔吐に近いものだったのだろう。

考察10〜掃除機の音が意味するもの

ラスト、ヘスの目線は、映画を観ているぼくらを現在に強制的に送り返す。

その転換に驚いたと同時に「やられた…」とぼくは思った。

この映画のテーマをささえるのは、無意識のうちにぼくらを形作る景観音だ。

今に送り返されたぼくらは、現在のアウシュビッツを捉えたそのシーンで、うるさいまでに掃除機の音を聞くことになる。

それは今のどこにでもある音だ。

冒頭からアウシュビッツの塀の向こうのくぐもった音を聞かされ続けた後の、リアルな騒々しい掃除機の音。

それはいつのまにか、塀の向こうの音を気にしなくなっている(!)ぼくら観客を叩き起こすかのような音だ。(まるで、居眠りしかけた学生が机をドン!と叩かれるような。)

もちろんドン!したのは監督だ。

ぼくは、その、ドン!に、答えなければならない…と思った。

それがいま、長々と、多分役に立たない映画レビューを書いている理由だ。

考察11〜ワンシーンだけ途切れた「音」の意味

劇中、延々に音が聞こえているのだが、その音が一箇所だけ、途切れるシーンがある。もちろん、観る側はハッとさせられるのだが、それはヘスの妻が育てた花々をクローズアップで捉える数カットの時だ。

それは殺戮の音を浴びながらも嬉々として庭づくりをするヘスの妻。育てられた花はその「おぞましさの権化」としての表現なのだと、ぼくは感じている。

それは、「無音」という「音」が掲げた無言のメッセージだ。

「本来美しい花」を「美からかけ離れた存在」として切り取った映画を、ぼくは他に知らない。




考察12〜終わらせない音楽

エンドロールの音楽が秀逸だ。

これほどまで不安で不快感を残すエンドタイトルは聞いたことがない。不協和音とも違う、前衛音楽のそれとも違う。

シーンの背景に延々と流れていた「音」を、さらに印象づけるような曲想が劇場から去った後も心に中に響き続ける。

そして、観終わって劇場を後にしたぼくは、外に出ても考えることを強いられ、映画が終わっていないことに気づく。

多分それはラストエンドロールの不思議な音楽のせい、そう感じている。



劇中のソフィーと『ソフィーの選択』

『関心領域』の中で「ソフィー」という女性の存在が示される。ヘスの妻の口から「ソフィー」と呼ばれる女性がいる。姿ははっきり描き出されない(と、ぼくは思ったが、間違っているかもしれない)けれど、確かに、いる。

そのあとでヘスが、多分ユダヤ人女性との性交を暗示させるシーンがある。

その時に頭をよぎったのが『ソフィーの選択』という1982年公開のメリル・ストリープ主演の映画だ。(当ブログの別記事で掲載しています。興味のある方はご覧ください)

『ソフィーの選択』の主人公は、アウシュビッツ強制収容所から生還したユダヤ人女性、ソフィーだ。

『ソフィーの選択』でもアウシュビッツ収容所の塀に隣接しているルドルフ・ヘスの屋敷内でドラマが進むシーンがある。ソフィーはルドルフ・ヘスの囚人秘書として働かせられるのだが、そのシーンで性的関係を迫られるくだりがある。

製作陣が、何度か叫び呼ばれる「ソフィー」を『ソフィーの選択』のソフィーと繋がりを持たせたのかどうかはわからない。

それでもソフィーという名前はソフィア=知性=に由来することを考えると、知性を踏み躙ったナチスの所業へのアンチのように思えてならない。

(ぼくは製作陣の『ソフィーの選択』への隠れオマージュと思いたいです)



『関心領域』ポーランドの強制収容所のこと

「アウシュビッツ強制収容所」は、1940年、オシフィエンチムに造られた。1941年にはオシフェンチムの隣村ブジェジンカに「ビルケナウ第2強制収容所」として拡張される。

1942~44年までに「第3強制収容所モノヴィッツ」ほか数十の強制収容所が作られた。

1945年の終戦間際にソ連軍によって解放されるまでに強制収容所に収容された人数は、約130万人。そのうち約110万人がガス室等で殺されたという記録がある。(記録はいくつかあるようで、死者数、詳細はいまだに把握されていない模様)



スタッフ・キャスト

監督:ジョナサン・グレイザー/撮影:ウカシュ・ジャル/音響:ジョニー・バーン/タニー・ウィラーズ /音楽:ミカ・レヴィ

キャスト:クリスティアン・フリーデル(ルドルフ・ヘス)/ザンドラ・ヒュラー(ヘートヴィヒ・ヘス)他



『関心領域』ぼくの評価

第二次世界大戦から80年経った今、戦争と負の遺産アウシュビッツを全く新たな視点と音での問いかけに、星五つです。

 







コメント

  1. くさかつとむ より:

    とても読みごたえのある深い考察、素晴らしいです。
    わたしがやはりこの映画で印象に残るシーンは最後にヘスが階段を、まるで闇に歩んで行くようなところで、こちらを見るところ。まるで彼から「あなたたちも同じだろう」と言われているようで、戦慄しました。

    ちょっとだけ補足なのですが、あのリンゴを埋める少女は実在のモデルがいるようです。
    グレイザー監督がポーランドでリサーチをしていたときに出会ったアレクサンドラ・ビストロン・コロジエイジチェックという人物。彼女がレジスタンスの一員としてたびたび収容者に密かに食事を与えていたということらしいです。
    監督は彼女の存在を「人間の善意の表れ」として希望を託するものとして描いたと言っているようです。

    とても素晴らしいレビュー、ありがとうございました。

    • タク タク より:

      くさかつとむさん、丁寧なコメントをありがとうございます。僕も暗闇のヘスからは同じようなメッセージを感じました。また、りんごの少女に実在のモデルがいたとは!それは知りませんでした。楽譜が入っている缶を見つけるシーンも印象的でしたよね。ブログに反映させても良いでしょうか?

  2. くさかつとむ より:

    反映は大丈夫です。
    楽しみにしてます。

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